神君伊賀(甲賀)越え⑧ 大和越え再考

令和によみがえった「大和越え」

 2021年3月、ある1冊の本が刊行された。上島秀友『本能寺の変 神君伊賀越えの真相――家康は大和を越えた』だ。著者は奈良県在住の歴史作家である。

 すでに過去のブログ記事(「伊賀越え」タグから見ることができる)でも触れたが、この伊賀(甲賀)越えについては、「伊賀を通ったのか、それとも甲賀を通ったのか」で熱い論争が繰り広げられてきた。伊賀で「甲賀ルート」のことを話すと「けしからん」と言われ、甲賀で「伊賀ルート」のことを話すと「けしからん」と言われる状態が、現在もなお続いており、両者納得の決着はまだついていないし、つく見込みもない。

 伊賀(甲賀)越えについて、最もよく参照されるのは、久保文武「家康危難考」(『伊賀史叢考』)と、藤田達生「伊賀越え再考」(『愛知県史』)だろう。久保氏は大和越えの由緒を退け、忠総留書に書かれる伊賀ルートについて検証した。藤田氏は伊賀ルートを最も可能性が高いとしながら、甲賀ルートについての可能性も十分あることを示している。この甲賀ルートについては、これまでも甲賀郷土史家によってたびたび触れられてきたが、これを最も詳しく説明したのが渡辺俊経『甲賀忍者の真実』である。

 しかし、ここにきて「大和越え」である。大和ルートなど、とっくの昔、昭和も中頃には滅ぼされていたと思っていたが、令和の時代によみがえったことに驚いた。本書の著者も同じように考えていたようで、その考えの変化が、この本の執筆動機の1つだという。前置きが長くなってしまったが、上島氏の主張と大和越えについて見ていきたい。氏は本書の前半で、2つの一次(と見られる)史料を掲げる。

2つの一次史料が示すもの

 1つ目は『記録御用所本古文書』に収録され、「東照宮御判物」とされている天正十年六月の書状写しだ。内容は「今度大和越の節、落度なき様めされ給り、かたじけなく存じ候、重ねて越智玄蕃允まで申し入れるべく候」(書下し)とあり、「天正十午年六月 御諱御判」とある。宛先は筒井順慶、森本左馬之助、竹村九兵衛、外嶋加賀守、和田助太夫の5名。越智玄蕃允について、元高取城主の越智玄蕃頭頼秀は筒井氏の家臣であるので、その縁者か、あるいは後年幕府旗本となる越智右馬允吉長であろうか。
 この宛先のうち竹村九兵衛道清については、家康が「大和国竹内峠」を越える際に手助けしたと、『寛政重修諸家譜』に書かれている。同書では、上記の書状にも言及し、この功績などから慶長年間に千石を与えられ、石見(銀山)奉行となった、とある。

 2つ目は年未詳六月十日付の和田織部宛の家康書状である。「今度の大和路案内、殊に高見峠に於いて相働の段祝著に候、忠賞の儀は行望むべく候、なお筒井へ申し入れ候、恐々謹言」(書下し)とある。上島氏によれば、『筒井諸記』に和田織部宛の筒井順慶の書状が見られ、実在する人物なのだという。京都の某家に伝来した書状で、昭和40年に『歴史教育』誌上で発表されたが、現在は行方不明らしい。
 
 これらを補足する情報として、寛文年間(1661-72)に編纂されたとされる『大和記』には、家康の大和路ルートが記載されている。同書によれば、堺で本能寺の変の報に接し、竹内峠(河内と大和の国境)→屋木(八木)→東の山中(不詳)→伊賀→三河の順序で帰国したという。

 さて、1つ目の史料で言及されている、竹村氏の由緒に出てくる竹内峠は、堺から東進すると当たる、河内と大和の境である。もし家康が堺で信長急死を知ったのだとしたら、京都方面へと行かず、真東=大和方面に進んだ可能性は十分考えられるだろう。峠を越えて、大和盆地をそのまま東へ進むと八木に至る。そして、さらにそのまま、現在の国道165号線に沿って進めば、伊賀国名張へと入り、めでたく「大和越え」と「伊賀越え」を両立できる。*1
 一方、2つ目の史料に出てくる高見峠は、これらのルートに対して南すぎる。もし高見峠を越えて進んだとしたら、家康一行は志摩国鳥羽へと出てしまうだろう。これはこれで伊勢湾をはさんで三河が近いのだが、家康が鳥羽から出港したという記述は見たことがない。上島氏が一次史料として提示したなかで、2つ目の書状については偽文書である可能性が高いと思われる。

家康は堺で本能寺の変を知った?

 ところで、家康は堺で本当に信長急死を知ったのだろうか。詳しくは上島氏の著書を読んでいただきたいが、実はこの可能性は高いと思われる。
 同書の132~133頁から一例を引くと、「徳川家康公 穴山梅雪 長谷川竹 和泉之堺にて 信長公御父子御生害之由承」(『信長公記』)、「家康ハ、此由を堺にて聞召けれバ」(『三河物語』)、「信長の凶報堺に達するや(中略)三河の王及び穴山殿は、直に彼等の城に向かひしが」(『ルイス・フロイス書簡』)、「二日朝徳川殿上洛。火急ニ上洛之儀者、上様安土より廿九日ニ御京上之由アリテ、それにつきふたふたと上洛由也 原注・これは信長御生害ヲ知テ、計略ヲ云テ上洛也」(『宇野主水日記』)とあり、ほぼ同時代の資料が軒並み、堺で知ったとしている。
 家康が堺で本能寺の変を知ったのなら、京都方面の枚方に向かった――とは、考えにくい。京都では明智光秀の軍が信長と信忠を敗亡させたばかりである。光秀は、家康に対して敵意は無かったという説もあるが、どうだろうか。光秀の軍門に下る気がなければ、特に京都は近づくべきところではないだろう。そこで堺から東進して大和に入った可能性は十分高いと考えられる。

 ちなみに上島氏は、住吉(大阪市住吉区)に、四国攻めに向かう織田信孝に帯同した伊賀衆がいたので、家康は逃避行にあたり、この伊賀衆を連れて行ったのではと指摘している。しかし、これは無いだろう。もしそうならば、後の伊賀者たちの由緒の謳い方は尋常ではないはずだ。伊賀衆のごく一部が、伊賀国内の限られた範囲内で、家康の伊賀越えに関わった、と見るべきだと思う。

 以上をまとめると、大和越えルートも否めないことになる。しかしこれは同時に、「伊賀国名張から入って斜めに横断する」「甲賀は通らない」ことを意味する。一部の甲賀の小領主に家康を助けた由緒があり、また伊賀者の由緒に名張の記述が見られないことと矛盾が起こってしまう。
 奈良県在住の戦国史研究家である和田裕弘氏は、著書『天正伊賀の乱』(中公新書)において、「堺から東進し、竹ノ内峠を越えて大和に入り、高田城で休息し、さらに東進したあと八木辺りで北上し、宇治田原を経由し、その後は通説通りの行程を歩んだのではないだろうか」としている。既存の情報を総合的にまとめた妥当な推測に思われるが、宇治田原に向かうならば、最初から京都方面=枚方方面へ向かうべきのような気がする。単純に遠回りなだけでなく、京都方面を避けて大和まで来たはずが、八木辺りからいきなり京都方面へ真っ直ぐ北上する、家康たちのモチベーションが説明できない。

 さて、議論は堂々巡りしてしまい、この記事では、過去に書いた結論を覆すことはできなかった。しかし、①家康は堺で信長急死を知っていた、②堺→竹内峠→八木までの大和ルートの可能性、の2つは、これからの伊賀(甲賀)越えの議論に追加されるべきであろうと考えるのである。

*1:伊賀者が後年書いた由緒書でも、伊賀越えについては「大和路」と記されることが多い。ただ、伊賀者たちの伊賀越えにまつわる由緒は滅茶苦茶なので、私はここから何かしらの意味を見出すべきではないと考えている。