伊賀越えの背景「天正伊賀の乱」 の、さらに背景
名張市を中心とする南伊賀では、毎年お盆に「本能寺の変」で織田信長を打倒した明智光秀を讃える「お蔭祭り」が催される。家康の伊賀越えを考えるには、同盟者・織田信長による伊賀侵攻「天正伊賀の乱」を無視できない。そして、その天正伊賀の乱の背景にあった伊賀国の事情を考えることが、伊賀越えを考えるためには必要不可欠なのだ。
伊賀の自治組織である「伊賀惣国一揆」は北伊賀の土豪が中心である。しかしながら「第一次天正伊賀の乱」で丸山城を攻撃したのは南伊賀の土豪たちであった。これはなぜか。
もともと惣国一揆は一枚岩ではなく、かつて六角承禎の傘下にあった北伊賀と、伊勢国司北畠家の傘下にあった南伊賀の間にひずみがあったことが以前より指摘されてきた。郷土史家・前川友秀氏による「死守できるか?運命の天正伊賀乱!」(『伊賀暮らしの文化探検隊レポート』vol.12, 2012)をもとに説明すると、天正2年織田に攻められた六角氏が滅亡。翌天正3年、かねてより北畠家の養嗣子となっていた信長の三男・信雄は家督を相続すると、義父の具教をはじめ北畠一族を謀殺。これを受け、興福寺にいた具親が還俗し、本陣を名張に構えて信雄に対抗した。具親は北畠旧臣を集めて蜂起を企て、南伊賀衆もこれに応じる。しかし信雄に撃滅され、南伊賀衆は信雄傘下に組み込まれてしまうのだった。その後、伊賀評定衆は信長と関係の深い守護・仁木義視を追放し、対信長路線を選択するものの、実のところ南北には温度差があり、それは、やや信雄寄りの北伊賀と、旧北畠家寄りの南伊賀というものだった。 さらに言えば、北伊賀の柘植氏や日置氏は信雄配下として伊賀侵攻に参加しているのである。
おとりの「御斎峠越え」、予備の「甲賀越え」、そして本命の「桜峠越え」
上記から、家康にとって桜峠~丸柱~柘植という伊賀国の北辺をなぞる経路は、それほどまで危険ではなかったのではないか。丸柱から家康を案内したのは、その地域に住んでいた宮田氏だという(「統集懐録」など)。後に江戸で働く伊賀者たちの抵抗によって、伊賀者頭を勤めていた服部正就が罷免される事件が起こるが、そのとき「宮田権右衛門」という者が代表者として切腹を命じられている。こうしたことから、宮田氏が何かの功績を残し、その結果、後の幕府「伊賀者」の中でリーダー的存在になったことは十分考えられる。そしてその「何かの功績」こそ、丸柱~柘植間における、家康一行の道案内だったのではないか。
前章「歪曲された情報の流布」で触れたように、かつて通説として存在した「御斎峠説」は、おとりのルートであったことが指摘されており、ここでもそれを支持したいと思う。一方、近年注目される「甲賀越え」ルートは、保険のルートとして存在したのではないか。和田家文書などを踏まえれば、実際に検討されたルートであることが、容易に想像できる。近江から伊勢へ抜ける、最も安全なルートであることに異論は無いだろう。こうしたルートの選定は、2日目の夜、信楽・小川城でなされたと考えられる。想像力をたくましくするならば、そのルートの検討を行ったのは、小川城に参集した和田氏や、城主の多羅尾氏など、甲賀の有力者が中心だったのではないかと考えられる。
必ず人質を出して
家康の逃避行全体として言えるのは、家康の案内を務めた(後の由緒書に御供と書かれる)者たちは、総じて人質を出しているということだ。そこにあるのは、家康の前に参上して忠義を尽くすという姿ではない。土地の庄屋であっても、甲賀・伊賀の地侍であっても、家康の要求に応じ、人質を出した上で、案内を務めたのである。
今度質物早速出され候段、祝着の事(和田家文書)
信長生害の時、伊賀をお通りなされ候時、人質を出し、送り申し候(「慶長見聞記」)
城州草地(草内)と申す所の庄屋の子を人質にお取り、案内者になされ候(「本多家武功聞書」)
「慶長見聞記」には、文脈上宮田権右衛門と思しき人物が人質を出して案内したと書かれる。これは、案内する人間が少人数であれば有効だが、数百人にも上るような大人数では、あまり有効な手立てではない。こうしたことを踏まえると、伊賀者が200人とか、そういった規模で家康の護衛を務めたというのは、考えにくいといえる。
「伊賀越え」後の伊賀者
後年、幕府に召し抱えられた伊賀者が作成した由緒書等によると、伊賀者たちは伊賀~白子間において家康の伊賀越えお供を果たした後、6月14日に尾張・鳴海(名古屋市緑区)に向かう。これは家康が明智光秀征討のために岡崎を出発し(13日)、鳴海に到着した(14日)のに合わせている。翌15日には家康に謁見し、その場で召し抱えられたという。ところで中国地方にいた羽柴秀吉は、世に言う「中国大返し」で急遽京都へ向かい、13日には山崎合戦が勃発。敗色濃くなった光秀は戦場を脱するも、翌14日早朝、伏見の土民に殺害されたといわれる。果たして伊賀者は、本当に14日に鳴海に来て、15日に召し抱えられたのだろうか。伊賀者召し抱えについては、江戸時代にはすでに諸説混交しており、実態が分からない。関係者たちが伝える由緒書の異同については、拙著(「幕府御家人伊賀者の研究」)にまとめてあるので、興味ある方はご覧頂きたい。ところで久保氏の論考でよく引用される「慶長見聞記」には、このようにある。
その後天下ご安治の時分、その時ご案内申し候宮田権右衛門、米地半介などと申す者、少々召しだされ候間、残る伊賀衆も参り、ご奉公望み申し候間、お取り立てなさるべく候へども、鹿伏兎まで送り申さずまかり帰り候間、さほど忠節に思し召さず候
実際には同年秋の「天正壬午の乱」に伊賀者が徳川軍として参加していることを踏まえれば、「天下ご安治の時分」になってからノコノコ出てきた訳ではないだろう。しかし家康の道案内を務めた宮田・米地が召し抱えられるのを見て、それから残る伊賀者たちが追々集まってきたというのは、真実を捉えているようにも思われる。
「神君伊賀越え」とは何だったのか
家康の逃避行は、混沌としていた。そのために早い段階で諸説生じ、沿道の地侍・商人・村落にとって、由緒や功績を語る良い題材になった。その後、それらは家康と自分たちを繋げる貴重なエピソードとして、江戸時代を通じて地域や家で語り継がれた。その地域における東照権現(=家康)信仰を強力にした効果もあっただろう。「神君伊賀越え」は、結果的に徳川家250年の安泰の一助となっていたのかもしれない。