岡崎の半蔵屋敷を探せ ~服部半蔵はどこに住んだのか②~

 少し間があいてしまいましたが、前回に引き続き、今回は時間を遡って、岡崎の服部半蔵屋敷について探っていきたいと思います。

 三河の岡崎で生まれた服部半蔵正成は、徳川家康が岡崎城主だった時代から仕えていました。当然ながら半蔵の屋敷は岡崎城下にあったはずですが、どこにあったのでしょうか。

 そもそも家康の岡崎時代は、永禄3年~元亀元年(1560~1570)と、かなり古い時代なのですが、手掛りをいくつか見出すことができました。今回は、半蔵屋敷地を探りたいと思います。

現在の岡崎城天守は昭和34年に復元されたもの

 

説①「中之馬場」説

 まずはこちらをご覧ください。

 これは、岡崎の不動産屋さんによるツイートなのですが、写真をよく見ると「服部半蔵(正成)屋敷跡地」とあります。この付近の昔の地名を「中之馬場」といいました。

『家山樵談』収録の岡崎城下(『新編岡崎市史 近世学芸』より)

岡崎城付近のGoogleマップ。赤枠付近が中之馬場、赤点が上記ツイートの撮影地点

 上記ツイートの撮影地点にあるお店の方に直接伺ったところ、地元の郷土史家の方によって、15年以上前に推定されたとのこと。実は、岡崎市がかつて作成・配布していたパンフレットにおいても、この地点を服部半蔵正成の屋敷地としていました。

岡崎市の観光パンフレット『岡﨑城下二十七曲り』より

 このパンフレットは出典を明らかにしていませんが、この説の出どころは、徳川創業史である『朝野旧聞裒藁』「東照宮御事蹟四十」に収録された、下記によるものと思われます。

三河国岡崎中根甚太郎所蔵松平蔵人佐元康公後に家康卜御改、永禄四年ゟ同六七年迄岡崎御在城之間、御家中御旗本衆迄屋敷附
(中略)
一、植村出羽守 中馬場
一、服部石見 同所
一、千葉大内蔵助 同所

 この史料では、永禄4~7年(1561~1564)頃の岡崎における家臣の屋敷地を列挙していて、その中で服部石見(=半蔵)が、「中馬場」に屋敷を構えていたことが記されています。ただし、植村出羽守の屋敷との詳しい位置関係までは記されておらず、上記の観光マップの詳しいプロットの理由については不明ですが、とにかく中之馬場に屋敷地があった可能性を示す記述はありました。

 これでめでたく確定! と言いたいところですが、実は服部半蔵の屋敷地には、少なくともまだあと2説もあるのです。

 

説②「松本頼母屋敷地」説

 岡﨑の逸話などを集めた『三河東泉記』にも、服部半蔵の屋敷についての記述が載っています。

権現様岡崎御在城、天正時代迄屋敷付水野監物御代御改之付
(中略)
一、服部石見殿 松本頼母

 家康時代の家臣がどこに住んでいたのか、江戸時代の水野家が岡崎城主だった時代の家臣の屋敷地に当てはめて記述しています。具体的にいつの時代かというと、まず、水野家が岡崎城主をつとめたのは、1645~1762年です。そのうち、水野家の当主が監物(けんもつ)と呼ばれた時代は、1699~1752年でした。

 また松平頼母(たのも)は、水野家の重臣で、もとは江戸詰の家でした。しかし、水野忠辰(ただとき)の藩制改革によって、1746年に江戸から本国岡崎へと移ります。したがって、上の記述は、松平頼母が岡崎に移ってからの1746~1752年の6年間だと言うことができます。

 では、松平頼母は、どこに住んでいたのでしょうか。水野時代の岡崎城下を描いた地図の中から、その名前を見つけることができました。

水野時代の岡崎城図(『愛知県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第4 』より)

 これは、お城から見て北東に位置し、現在の「東隅櫓」から「浄瑠璃姫の墓」のあたりとなります。

青囲みが松平頼母屋敷跡

 『三河東泉記』は、詳しい成立年次が分からず、これだけだと証拠不十分の感が否めないのですが、実は、さらに有力な根拠があります。

『三州岡崎城図』(国立公文書館所蔵)(前本多氏時代)

 これは、本多彦次郎家が岡崎藩主だった1602~1645年の間の岡崎城下の地図なのですが、家康時代の家臣の名前が、付箋で貼り付けられています。上の「松平頼母屋敷地」に相当する場所には、なんと「服部石見守」の付箋が貼られていました。この地図が描かれた年次や付箋が貼られた時期も、正直よく分かりませんが、こうしたビジュアルの史料も、服部半蔵の屋敷がお城の北東「松平頼母屋敷地」にあったことを示していたのです。

 

説③「三の丸から本丸の間」説

 しかし、家康時代の家臣の屋敷地を示す史料は、これだけにとどまりません。1710~1712年に写された『東照権現様岡崎御在城之御時御籏本屋敷之覚』(中根家文書)には、家臣の屋敷の場所が列記されており、このなかに服部半蔵もいました。

東照権現様岡崎御在城之御時御籏本屋敷之覚
(中略)
服部石見守殿屋敷 三之丸本丸迄

 ここからは、岡崎城の三の丸から本丸までの辺りに居住した、と読み取れます。大雑把でよく分からないのですが、本丸と三の丸の間なら、下の緑囲みの辺りと推測されます。

後本多氏時代の岡﨑城図。本丸と三の丸の間とは、つまり緑囲みのあたりのことか

 以上を現在の地図に落とすと、それぞれ下図のようになります。


結局、どこに住んでいたのか

 服部半蔵は、岡崎時代にどこに住んでいたのか。3つも説が出てしまいました。説①は、岡崎市の観光パンフレットも採用していた「中之馬場」説。説②は、江戸期作成の地図にも付箋が貼られている「松平頼母屋敷地」説。そして説③は、今ひとつ不確かですが、「本丸から三の丸の間」説です。

 正直なところ、どの説も決定打に欠けるのですが、しいて言えば、2つの根拠を持つ説②が、最も可能性が高いように思われます。私が現地を訪れた2023年時点では、「松平頼母屋敷地」は、砂地の駐車場のようになっていました。

写真右に見えるのが「東隅櫓」、やや左下に見えるのが「浄瑠璃姫の墓」

 

その後の服部半蔵

 元亀元年(1570)、家康は岡崎城を嫡男・信康に任せ、自身は浜松城へと移ります。さらに天正14年(1586)には駿府城(静岡市)へ入りました。服部半蔵が家康に従って、浜松や駿府にも住んだのかどうかは、定かではありません。

 天正3年(1575)と同14年(1586)の年号を持つ、遠江国長上郡小池村(浜松市中央区小池町)の八王子神社に奉納された奉納札の写しからは、小池村が服部半蔵の知行地だったことが分かります(『元御家人筋并御由緒有之蒙仰御用相勤候家附服部家畧系』)。このことから、浜松城近くに住んでいた可能性も考えられないわけではありませんが、天正7年(1579)の信康切腹事件の際に、半蔵が介錯を務めたことを考えると、おそらく半蔵は岡崎に残り続けていたのでしょう。家康の後継者となる(はずだった)信康を支え、岡崎や周辺の城を守っていたものと推測されます。

 

 天正10年(1582)6月、織田信長が本能寺の変で急死すると、家康は「伊賀越え」で岡崎へと急ぎ帰還します。このとき、半蔵は家康とともに行動していたといわれますが、三河生まれとされる半蔵正成に、何ができたのかは分かりません。ただし、同年7月からは、同僚である服部仲とともに、配下となった伊賀者を引き連れて、各地の戦へ参加していくこととなります。

 彼らは戦が無いとき、何をしていたのでしょうか。これを示唆する興味深い記述も見つけました。

大三川志曰、(天正十五年一月)九日三好秀次一万石ノ禄ヲ以テ平松金次郎を招ク(中略)平松可睡斎ノ寺ニ逃ル、小栗忠政・渡辺守綱・坂部広勝・河村善七郎も命ヲ奉ケ追ヒ来リ寺中ニ入テ平松カ所在ヲ問フ、此時ニ当テ服部正成掛川城番交代ノ道ニシテ是事ヲ聞キ、火炮ノ卒ニ命シ寺ヲ囲ム

(『朝野旧聞裒藁』「東照宮御事蹟二百三十五」 ※ 『大三川志』は宝暦13年(1763)成立)

 天正15年(1587)、羽柴側に調略された徳川家家臣・平松金次郎が、味方から追われて、可睡斎(静岡県袋井市)という寺に逃れました。ちょうど服部半蔵は掛川城の番のために配下の者を連れて、近くの道を歩いていました。このことを聞くや、鉄砲打ち(配下の伊賀者のことか)に命じて寺を包囲させ、それを見た平松は観念したとあります。出典が江戸後期に作られ、創作も多分に含まれる『大三川志』なのが難点ですが、特に戦が無いときは、他の旗本と交代で周辺の城の警備をしていたのだと想像されます。

 また(『大三川志』をもとに考えないほうが良いかもしれませんが)、平松が逃げ込んだ可睡斎は、掛川城から見て西にありました。天正15年時点で、家康は掛川城より東の駿府城にいたので、服部半蔵は家康の居城のある駿府ではなく、掛川よりも西、おそらくは岡崎に住んでいたのだろうと推測されます。

 そして、この4年後の天正19年(1591)、家康の関東移封にともない、服部半蔵正成は生まれ故郷である三河を離れ、配下の伊賀者とともに、遠く江戸へと移ることになるのです。

 

※この記事は、2023年9月に開催された「第6回国際忍者学会大会」における口頭発表「服部半蔵の屋敷と半蔵門の由来に関する考察」の一部を記事化したものです。