前回に引き続き、天正伊賀の乱前夜の伊賀についてです。「その1」はこちら。
天正5年 北畠氏旧臣の蜂起
天正4年(1574)元の伊勢国司、北畠具教が織田信雄によって滅ぼされ、伊勢は織田信雄の手に落ちました。これに強く反応したのは、具教の弟である北畠具親でした。当時奈良の興福寺・東門院の僧侶だった具親は、これを聞くと還俗し、一旦伊賀に潜伏します。その後、南伊勢の北畠家旧臣らを集めて挙兵するも、信雄軍の前に敗れて安芸へと逃亡しました。この北畠具親の蜂起は、天正5年(1575)のことと考えられています。
潜伏先の伊賀での居城(現在、北畠具親城と呼ばれる)は名張郡、すなわち南伊賀にありました。伊勢北畠氏が滅んだ後も南伊賀と北畠氏との紐帯は残っていたようで、深い繋がりがあったことを推測させます。これはひとえに、南伊賀には北畠氏の被官となっていた者が多かったからでしょう。その北畠家を排した織田家に対する怒りは、南伊賀を中心に高まっていくことになります。
謎の人物・仁木義視とは誰か
前回伊賀守護として名前を挙げた仁木長政と時期を同じくして、仁木右京太夫義視という人物の名が、江戸時代に書かれた地誌『伊陽旧考』・『伊乱記』に現れます。
『伊乱記』によれば、当時争いや貧困の絶えなかった伊賀に秩序をもたらすべく、僧侶らによって、統治者として近江から呼ばれたのが、仁木義視でした。
また『伊陽旧考』には、仁木は伊賀に入る際、伊賀の意思決定機関として「十二家評定」を設置したとあります。十二家評定は、伊賀の有力土豪12家から成り立ち、国内の揉め事などの裁決を行ったと書かれています。十二家評定は、自分たちが下した判決を仁木に上奏し、追って承認を得るかたちで伊賀を治めていたようです。
そうしたなか、あるとき伊賀の百田藤兵衛の家にあった歴史ある閻魔像を、仁木は拝見したいと言って借り出します。しかしいつまで経っても返却しようとせず、怒った百田をはじめ、仁木に対して日頃から不満を抱えていた一部の伊賀衆たちが、ついに仁木を攻め立ててしまいます。驚いた仁木は閻魔像をすぐに返却しますが、許されず、ついに信楽へと逃亡しました。『伊乱記』に、この一連の出来事は、天正5年(1577)5月のことだったと書かれています。
この「仁木義視」という名前は、当時の一次史料からは見いだすことができません。一方、伊賀守護として知られる仁木長政は、永禄11年の史料などに「仁木左京太夫長政」として名前が出てきます。ところで冒頭で触れたとおり、義視は「仁木右京太夫義視」と書かれていました。この「右京大夫」「左京大夫」の箇所に注目すれば、同一人物と見なすことが出来るかもしれません。仁木氏に関する、少し前の長享3年(1489)の史料には
一荷、両種三百疋、茶二百袋、仁木左京大夫、信楽代官職事、就還補進上(仁木左京大夫は、信楽代官に復任したことの御礼として、金銭300疋、茶葉200袋を進上した)(後法興院雑事要録)
とあり、近江国信楽は仁木氏にとって、所縁(ゆかり)ある土地でした。だからこそ伊賀衆から攻められたとき、義視は信楽へと身を潜めたのかもしれません。『伊乱記』『伊賀旧考』も採用するならば、仁木長政(義視)は、永禄以前(1500年代半ば)に伊賀守護となり、永禄12年(1569)に信長に恭順を示すものの、伊賀衆との間に争論を起こして信楽へ逃げた、ということになります。
天正6年 丸山城合戦
丸山城は旧名張郡で伊賀市下神戸にあった山城です。北畠具教が隠居城として築いたのが始めとされていますが、その時は信長らの反対もあって完成には至りませんでした。
一般に知られる話として、この城に目を付けたのが織田信雄であり、家臣の滝川雄利にこの城の増改築を命じ、伊勢からも人員を派遣して、急ぎの修築を行います。しかしこの動きに反発した伊賀衆たちは、完成間近の丸山城に攻撃を仕掛け、滝川雄利らを伊勢へと追い返します。城は伊賀衆によって燃やされ、灰燼となりました。これが天正伊賀の乱の前哨戦と言われている丸山城合戦です。
実はこの合戦については、一次史料からは確認することができず、すべて『伊乱記』『伊陽旧考』に拠ることになります。とは言え、伊勢から山続きとも言える地域で、且つ南伊賀の中心に近いこの地域に、伊賀征服の足掛かりとしての城を築くこと自体は、自然な流れと言っても良いでしょう。
城の修築に当たったとされる滝川雄利は滝川一益の婿養子で、実父は柘植(つげ)氏とも木造(こづくり)氏とも言われます。柘植氏も木造氏も、伊賀とゆかりのある北畠旧臣ながら、早い段階で織田家に付いています。信雄にとって雄利は、伊賀・伊勢の土地もよく理解している、伊賀征服に欠かせない人物だったと思われます。一次史料にこそ残ってはいませんが、丸山城合戦のような戦は、実際に起こった可能性が高いと考えられます。
これに黙っていなかったのが、織田信雄でした。この翌年の天正7年(1579)、自ら家臣を率いて、伊賀討伐へと向かいます。「第一次天正伊賀の乱」が始まるのです。(つづく)