荻窪に住んだ伊賀者の謎

 年がら年中、忍者のことばかり考えているのかと言うと、別にそういうこともなくて、他にも興味や関心は当然あるのですが、そういうものの1つに”暗渠(あんきょ)”があります。

 先日、とっておきの暗渠に案内して頂けるというので、お呼ばれして行ってきたのですが、そのとき案内して下さった吉村生さんが、個人的にとっても気になるツイートをされていました。

 この「忍者の人たち」に自分が含まれていたと記憶するのですが、ツイートを見て、改めてこれは調べなければ……と思ったのです。ちなみに回し者ではありませんが、吉村さんも共著で書かれている『暗渠マニアック』(柏書房)は、関東に住んでいて街歩きが好きな人にはかなりオススメです。この本を読んで「あ、ここ暗渠かな~?」と、いつもと違う視点で歩くと、何気ない普通の住宅地でも歩くのが楽しくなってきます。

 さてまずは吉村さんの一連のツイート(日付から開くことができます)をもとに、『杉並の通称地名』と『荻窪百点』を読んでみます。『杉並の通称地名』(1992年刊行)には、

しのびがやと 忍ヵ谷戸
(中略)伝承では江戸開府のころ伊賀者(忍者)を居住させ服部半蔵支配下にあったので、忍びが谷戸と呼んだという。忍川(しのびかわ)橋に近い一〇戸ほどを忍組といった。

しのびかわばし 忍川橋
昭和初年までこの名で、後誤っておしかわばしというようになり、現バス停もそう呼んでいる。その意味では現在も通用する。
大正の終りころ荻窪川南に来住した人々が忍川をおしかわと読んでから誤って呼ばれはじめた。

とあって、忍ヵ谷戸(下荻窪村の一部)に伊賀者がいて、それが地名の由来になった旨を載せています。

 また『荻窪百点』(杉並タウン誌)の287号(2012年9月)では「〈特集〉忍者服部半蔵荻窪 荻窪に「忍者」が住んでいた」として、伊賀者について簡単に触れつつ、

忍ヵ谷戸の伝説
荻窪服部半蔵の領地であった頃、半蔵は忍ヵ谷戸の百姓に「雨が三粒でも降ったら仕事をやめてバクチを打て」と奨励しました。バクチ場開帳が世間に知れると諸国から大勢のならず者が集まってきたので、半蔵は、いながらにして諸国の情報を収集できたといわれます。後に、バクチが天下のご法度となったため、半蔵はバクチ場を公認した罪でお国替えとなりました。

服部半蔵ゆかりの忍川橋(おしかわばし)
江戸時代のはじめ、荻窪の東部の下荻窪村は伊賀忍者(伊賀組)の隊長、服部半蔵正成、荻窪の西部の上荻窪村は伊賀同心8人の知行地になりました。その後、慶長年間(1600)に下荻窪のみが幕府へ公収され直轄の天領になり、寛永12年(1835)(引用者註:1635年)には麹町山王日枝神社領になりました。

と紹介しています。

 しかし伊賀者側に上下荻窪村を拝領した話はありません。江戸移住にあたって拝領した村々の名前を、伊賀者たちは組の由緒書に記していますが、どの由緒書を見ても荻窪の荻の字も出てきません。これは一体どういうことなのでしょうか。

荻窪の伊賀者居住説をさかのぼる

 まず、江戸時代の文化文政期に編まれた「新編武蔵風土記稿」を開くと、

荻窪
(中略)天正十九年九月廿四日、柏木右近・小林大弁・服部清助・加藤二三郎・浅沼但馬等ウケタマハリテ検地ス。此五人ハ伊賀ノ者ナリシヤ、詳ナラス。其後収公セラレシ地モアリ。当所ハ御入国ノ頃、伊賀ノ者五十人ノ給地ニ賜リ…

とあり、これが諸説の根源とも思えます。忍ヵ谷戸があった肝心の下荻窪村の項目はと言うと、伊賀者や服部半蔵に関する記述は一切ありません(「新編武蔵風土記稿」は、国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。コマ番号19-20あたりを参照。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763995)。前掲の『杉並の通称地名』と同シリーズ『杉並の地名』(1978年)では、上荻窪村について、この「新編武蔵風土記稿」に沿って紹介されています。

  この『杉並の地名』が刊行された年に、もう1つ別の本が出ています。『杉並区の歴史』(杉並郷土史会、1978年)では、杉並区内20ヶ村の、宝暦8年(1758)の村高帳の内容を集計して表にまとめて掲載しています。出典は堀江家文書(首都大学東京図書館蔵)で、時代的にも内容の信憑性は非常に高いと考えて良いはずですが、その取りまとめた表にはなんと、

荻窪村 64石6斗1升1合7勺
郡代同心知行所
伊賀同心植木・沢知行所
伊賀同心大谷・鵜飼知行所
二丸御留守支配同心知行所

とあり、伊賀同心(?)が上荻窪村を知行していたと書かれています。

 しかしながら、江戸中期以降において、同時代の伊賀者*1を指し示すにあたって「伊賀同心」という名称は使われていません。伊賀者ならばそのまま「伊賀者」と書かれます。また、この植木・沢・大谷・鵜飼という姓は、伊賀者家筋の由緒書から、同姓の者ですら見出すことができません。これはつまり、可能性があるとしたら、伊賀出身の家ではないけれど”伊賀者の役職”に就いている者か、もしくは、鉄砲百人組の伊賀組同心ということが考えられます。この鉄砲百人組の伊賀組の扱いは結構難しくて、いわゆる伊賀者とは別の身分で、そもそも伊賀国と本当に関係があるのかすら実は判然としません。

 話が長くなりましたが、ここで杉並区の自治体史である『杉並区史』(1982年)に登場頂いて、上荻窪村について見てみると、

宝暦八年の石高帳では村高二六七石余のうち、その大部分の二〇二石余を占める天領のほかは、御先手同心知行所二四石余と、植木富三郎・沢弥三郎・千種庄兵衛の知行所計一一石余、二丸御留守居支配同心知行所二六石余及び大谷新五郎・鵜飼左市郎知行所二石余に分かれている。

とあります。宝暦8年という年号の合致から、恐らく『杉並区の歴史』と同じ文書をもとに記述していると思われますが、ここに「伊賀同心」という表現はありません。もしかすると先の『杉並区の歴史』において、「新編武蔵風土記稿」の内容などを加味して、編者が書き足した可能性も考えられます(首都大東京まで行って原本見れば分かることではあるのですが)。

荻窪の伊賀者伝説の真相

 さて『杉並区史』では、この植木・沢・千種・大谷・鵜飼の5名についての検討もされているのですが、これが非常に重要です。植木は武蔵国多摩郡に知行地があることが確認でき、沢・千種・大谷は不詳なのだそうですが、重要なのは鵜飼で、彼と上荻窪村との関係性は不明としながらも、もと御広敷伊賀者であることを明らかにしています。その典拠とする「寛政重修諸家譜」を見ると、

 鵜飼
はじめ安中を称し、のち鵜飼にあらたむ。次兵衛政長、永禄十一年より仕へ奉り、其子権左衛門政尚、御屋敷の伊賀者となり、夫より五代相続て政福にいたる。

●政福(まさよし)
佐市郎。御広敷伊賀者より御広敷添番並となり、後添番に遷(うつ)る。

ということで、伊賀国出身の伊賀者家筋では無さそうですが(もしそうなら子孫がハッキリとそう書くでしょう)、確かに「伊賀者」の業務を務めた者が、上荻窪村の一部を知行していたことが分かりました。

  上荻窪村については分かりましたが、それでは下荻窪村の忍ヵ谷戸や忍川橋の話はどうなるのでしょうか。バクチ場の話だと、服部半蔵はその咎めで「お国替え」になったと書かれていましたが、そもそも半蔵は大名ではないので国は持っていませんし、罰として知行地替えが行われた話も知られていません。

 今回、その説の出典となる資料について見つけることが出来ました。それは地元の郷土史家によって書かれた『杉並風土記』(1977年)です。その「伊賀忍者」という節に

 伊賀忍者

江戸時代の初期に、荻窪の東部(下荻窪村)は、伊賀忍者(伊賀組)の隊長服部半蔵、西武(上荻窪村)は伊賀同心八名の知行地になりました。慶長年間(一六〇〇年頃)に、下荻窪村のみが天領となり、後、寛永十二年(一六三五年)に、麹町日枝神社領になりました。

(中略)慶長元年(一五九六年)に、半蔵正成が死んだ後、嫡男半蔵正就が伊賀組の隊長を継ぎました。微禄の伊賀同心達は(中略)隊長の罷免を幕府へ訴え、もし聞き入れてもらえなければ斬死すると、寺院にたてこもりました。幕府は半蔵正就を罷免のうえ、慶長三年頃? 知行を三千五百石減知し(この時に下荻窪村は幕府へ公収され、天領になりました。)伊賀同心の主だった者数多に切腹を命じて、事件を収め、従来四谷伊賀町、忍町とその付近に住んでいた伊賀同心を、大久保百人町へ移し、内藤清成(信州高遠三万三千石の藩祖)の支配下に組み入れ、三十俵扶持(一年間に米を一〇石五斗を支給)にしました。

さらに続けて

 「忍ヵ谷戸の伝説」 昔、荻窪服部半蔵の領地であった頃、半蔵は忍ヵ谷戸の百姓へ、雨が三粒でも降ったら仕事をやめてバクチを打てと奨励しました。雨の日には、忍ヵ谷戸でバクチ場が開帳されると世間に知られ、諸国から大勢のならず者がバクチをしに集まってきました。半蔵はいながらにして、ならず者から諸国の情勢を収集したそうです。後にバクチが天下のご法度になったため、半蔵はバクチ場を公認した罪で、御国替えになったそうです。

 と「伝説」と銘打って例のバクチ場の話をし、最後に「南荻窪一丁目、●●●●●氏談」として、この話を述べた方の実名を入れて終わっています。

 おそらくですが、この本が諸々の原典なのではないかと考えられます。特にバクチ場の話に限って言えば、活字化されたのはこの本が第1号だと思われます。

 ちなみに伊賀者(引用文で言う所の伊賀同心)は、別に大久保百人町へは引っ越しておらず、そのまま四谷近辺に住み続けています。大久保百人町には、鉄砲百人組の二十五騎組同心が住んでおり、なぜか昭和の一時代に限って、鉄砲百人組の二十五騎組同心と伊賀組同心が取り違えて勘違いされるということが起こっていました。*2

まとめ

「新編武蔵風土記稿」では、伊賀者50人が上荻窪村を知行した説を紹介し、天正十九年に検地を行った5人を「伊賀者ナリシヤ、詳ナラス」として、伊賀者だと思うけどよく分かんないとしています。実際、伊賀者側に残る由緒書などから、天正や慶長といった段階で荻窪を伊賀者が知行していたことは無いと考えられます。服部半蔵荻窪知行についても、そのことを示す幕府の資料や地方文書が無い以上、上下荻窪村に関与していた可能性は低いでしょう。

 一方で、上荻窪村を現役の伊賀者が知行していた事もありました。彼は伊賀出身のいわゆる伊賀者家筋ではありませんでしたが、大奥の警備を行う広敷伊賀者を務め、その後広敷添番まで昇進を遂げた者でした(ちなみに江戸時代の下級官吏の昇進の難しさについては、ちょうど同じ伊賀者を事例に採った『忍者の末裔』(高尾善希、KADOKAWA)が参考になります)。

 下荻窪村には小字として「忍」の付く地名がありました。これが地元の人たちに「忍び」との関連を疑わさせ、上荻窪村の伊賀者知行の話と一体化し、地域の伝承となって、荻窪忍者が形成されていったのかも知れません。

*1:ここで言う伊賀者には2通りの意味があります。1つは「伊賀者」と名前に付く役職、すなわち「明屋敷番伊賀者」「広敷伊賀者」「山里伊賀者」「小普請伊賀者」に就いている者。もう1つは、家康の伊賀越え御供云々という由緒を以って、伊賀から江戸に来て幕府に仕えている、伊賀者家筋の者。伊賀者家筋の者だからと言って、必ずしも「伊賀者」という役職に就いている訳ではありませんが、それでも彼らは「伊賀者」を名乗ることがあります。

*2:平成に入ってから『大久保鉄砲百人組』(鈴木貞夫、2000年)などで誤りであることが指摘されています。また一方で、明治時代に書かれた文章(例えば『幕末の武家』(柴田宵曲青蛙房、1965年)に収録されている相陽道人の回顧文など)では青山に住んだ伊賀組と大久保の二十五騎組はきちんと別物と認識されており、大正~昭和のどこかのタイミングで混同されたものと思われます。