戸田本三河記は「甲賀越」ではない

「甲賀越」と記した唯一の史料 今なお議論紛糾の神君伊賀越え。このブログでも全8回(2024年2月現在)をつかって解説してきました。 何が議論になるのかというと、家康が通ったルートです。大まかに言うと、①信楽から桜峠を越えた説、②信楽から甲賀を回っ…

現代忍者の基礎知識① 忍者文字

忍者を好きな方の多くは、研究や調査よりも、どうしたら忍者になれる? 現代で忍者っぽいことをするにはどのような方法がある? といったことに興味関心があるのではと思うのですが、「忍びの館」では、これまでそうした関心には応えきれていませんでした。 …

神君伊賀(甲賀)越え⑧ 大和越え再考

令和によみがえった「大和越え」 2021年3月、ある1冊の本が刊行された。上島秀友『本能寺の変 神君伊賀越えの真相――家康は大和を越えた』だ。著者は奈良県在住の歴史作家である。 すでに過去のブログ記事(「伊賀越え」タグから見ることができる)でも触れ…

幼少の頃の忍者体験

普段とは趣向を変えて、私が小学校低学年の頃に経験した、街全体を使った忍者体験の話をしたいと思います。 ある朝、いつも通り起きると、枕元になにやら巻物のような物が。その巻物を持って、隣町の公民館的な場所へ、親に連れられて行った。 部屋で待機し…

荻窪に住んだ伊賀者の謎

年がら年中、忍者のことばかり考えているのかと言うと、別にそういうこともなくて、他にも興味や関心は当然あるのですが、そういうものの1つに”暗渠(あんきょ)”があります。 先日、とっておきの暗渠に案内して頂けるというので、お呼ばれして行ってきたの…

天正伊賀の乱 その3(第一次天正伊賀の乱)

いよいよ、織田信雄が攻め込む「第一次天正伊賀の乱」が始まります。ちなみに前回はこちら。 信雄侵攻開始 まずは「伊乱記」「伊陽旧考」に沿って、天正伊賀の乱をみていくことにしましょう。 敗走してきた滝川雄利から報告を受けた信雄は大いに怒り、天正7…

天正伊賀の乱 その2

前回に引き続き、天正伊賀の乱前夜の伊賀についてです。「その1」はこちら。 天正5年 北畠氏旧臣の蜂起 天正4年(1574)元の伊勢国司、北畠具教が織田信雄によって滅ぼされ、伊勢は織田信雄の手に落ちました。これに強く反応したのは、具教の弟である北畠…

天正伊賀の乱 その1

2017年7月、和田竜原作の映画「忍びの国」が公開されました。この映画が描くのは、伊賀国を攻めた織田軍と、自分たちの土地を守るために戦った伊賀衆のバトル=「天正伊賀の乱」です。主な戦闘は天正7年と天正9年の2度あり、俗に第一次天正伊賀の乱、第二…

神君伊賀(甲賀)越え⑦ 参考文献・史料目録

同時代史料(=1次史料) 「山中文書」(徳川家康書状写)(1582.6.4)「和田家文書」(家康起請文写)(1582.6.12) 『家忠日記』(1577~1594、松平家忠)※家忠は三河・大浜に到着した家康一行を迎えに行っている。 江戸初期成立文書 『石川忠総留書』…成…

神君伊賀(甲賀)越え⑥ 考察

伊賀越えの背景「天正伊賀の乱」 の、さらに背景 名張市を中心とする南伊賀では、毎年お盆に「本能寺の変」で織田信長を打倒した明智光秀を讃える「お蔭祭り」が催される。家康の伊賀越えを考えるには、同盟者・織田信長による伊賀侵攻「天正伊賀の乱」を無…

神君伊賀(甲賀)越え⑤ 歪曲された情報の流布

伊賀越えにはルートや日数などにおいて、様々な説が混在し、我々はそれに混乱してしまった。なぜ、これほどまでに多くの異説が存在するのだろうか。これについて久保文武氏は「家康の伊賀越危難考」の中に「雑書の混乱」という章を設け詳細に検討を加えてい…

神君伊賀(甲賀)越え④ 3日目その2(柘植~岡崎)

柘植(つげ)(伊賀市) 柘植から鹿伏兎(加太・かぶと)に向けて、柘植三之丞や米地九左衛門半助らが案内する。柘植氏と鹿伏兎衆は不仲のため、柘植は引き返すが、米地は故あって見知られていないので、引き続き案内した(「寛政重修諸家譜」柘植三之丞)と…

神君伊賀(甲賀)越え③ 3日目その1(伊賀越えか甲賀越えか)

家康が信楽の小川城を出発したこと、またその後に柘植の徳永寺で休んだことは、ほとんど異論を挟む余地がない。しかしその間、どのルートを取ったのかは、江戸時代初期より諸説入り乱れ、現在においてもいまだ決着していない。今回は主に知られる①甲賀郡内を…

神君伊賀(甲賀)越え② 1、2日目(堺~信楽・小川城)

家康、堺を出発 午前5時頃、家康一行は堺を出発した。京への道中、行き交う人々が騒がしい。聞くと、本能寺で「喧嘩」があったという噂もあり、一同心配していた。「譜牒余録」の永井万之丞の項には、 路次にて京より罷下ル下々、何と哉覧騒敷(さわがしき…

神君伊賀(甲賀)越え① 概要

概要 天正10年6月2日早暁、京都・堀川四条の本能寺に宿泊していた織田信長と、烏丸御池の妙覚寺にいた織田信忠は、重臣・明智光秀に攻められ、敢えなく自刃した。世に言う本能寺の変である。この時、大坂・堺にいた徳川家康は、軍勢を引き連れていないことか…

手裏剣、「忍者」、萬川集海について

唐突ですが、①忍者の手裏剣のイメージ、②「忍者(にんじゃ)」という呼称、③「萬川集海(まんせんしゅうかい)」の訓み、について最近気づいたことを書きたいと思います。

忍者本これ10冊!

ご無沙汰しております、直之進です。 昨年2015年より忍者ブームが到来し、いつもなら年に2,3冊出るか出ないかという忍者本が、ここ最近は毎月のように出版されています。さらには、わたしの知っている範囲だけでも、今年度中にあと4,5冊は出ます。ここ…

甲賀古士その2 甲賀古士のシュウカツ

東京竹橋の国立公文書館に、忍術伝書「万川集海」が保管されている。かつて江戸幕府が所蔵した文書は、明治維新を経て太政官、次いで内閣の蔵書となり、現在は内閣文庫を構成する。「万川集海」もその1つとなった。ここでは、「万川集海」が幕府の所蔵する…

甲賀古士その1 島原の乱

はじめに 「甲賀古士」とは、甲賀在住の元侍衆の農民のことである。彼らは戦国時代、いわゆる”忍びの術”を以て諸国の武将に与し、時に反抗したと伝える。豊臣秀吉による甲賀武士の所領没収=甲賀ゆれ=によって、甲賀武士は没落。ある者は郷土に残り、ある者…

忍術研究史その3

さて、忍術研究史も最終回になった。第1回、第2回に続いて、今回は伊賀郷土史家の久保文武について触れ、それ以後の忍者研究について考えたい。

忍術研究史その2

前回は足立・山田・尾崎『忍法』の記述に則り、伊藤銀月、藤田西湖、奥瀬平七郎について述べた。同書では他に、井上吉次郎、中西義孝、足立巻一、吉田光邦、山口正之の名前を挙げているが、ほとんど言及されていない。今回はこれらの人物と沖森直三郎、名和…

忍術研究史その1

忍術/忍者研究史について、まとめてみたいと思う。 こんなことをする人は自分以外いないかと思ったが、意外にも昭和中頃に先例があった。昭和39年に出版された足立巻一・山田宗睦・尾崎秀樹共著『忍法』(三一書房)の「マス・コミのなかの忍法」において、…

万川集海は「まんせんしゅうかい」か「ばんせんしゅうかい」か

『萬川集海』(以下、万川集海)は、延宝7年に藤林保武によって編纂されたという忍術伝書で、最も有名な忍術伝書である。その巻数は22に及び、類書の中でも最大級の内容を誇る。好事家にも広く知られていた『万川集海』の訓(よ)みは、ながらく、「ばんせ…

服部正成の父の謎

「歴史上の忍者の名前を1つ挙げて欲しい」 こう問われると、「服部半蔵」の名前を挙げる人も多いだろう。 ご存知、服部半蔵正成である。彼は徳川家康の家臣で、「徳川十六神将」にも数えられ、”忍者である”とはちょっと言えそうにない存在だ。ところで、こ…

忍者とはなにか

忍者の定義 サイトの補助的な意味も含めて、今回より”忍者”について、書いていきたい。第1回目として書くにあたり、まずその”忍者”の定義について述べておかなければならないだろう。 ここでは、「諜報・破壊活動を専らとして行う、主として伊賀・甲賀出身…