歴史

戸田本三河記は「甲賀越」ではない

「甲賀越」と記した唯一の史料 今なお議論紛糾の神君伊賀越え。このブログでも全8回(2024年2月現在)をつかって解説してきました。 何が議論になるのかというと、家康が通ったルートです。大まかに言うと、①信楽から桜峠を越えた説、②信楽から甲賀を回っ…

神君伊賀(甲賀)越え⑧ 大和越え再考

令和によみがえった「大和越え」 2021年3月、ある1冊の本が刊行された。上島秀友『本能寺の変 神君伊賀越えの真相――家康は大和を越えた』だ。著者は奈良県在住の歴史作家である。 すでに過去のブログ記事(「伊賀越え」タグから見ることができる)でも触れ…

神君伊賀(甲賀)越え⑦ 参考文献・史料目録

同時代史料(=1次史料) 「山中文書」(徳川家康書状写)(1582.6.4)「和田家文書」(家康起請文写)(1582.6.12) 『家忠日記』(1577~1594、松平家忠)※家忠は三河・大浜に到着した家康一行を迎えに行っている。 江戸初期成立文書 『石川忠総留書』…成…

神君伊賀(甲賀)越え⑥ 考察

伊賀越えの背景「天正伊賀の乱」 の、さらに背景 名張市を中心とする南伊賀では、毎年お盆に「本能寺の変」で織田信長を打倒した明智光秀を讃える「お蔭祭り」が催される。家康の伊賀越えを考えるには、同盟者・織田信長による伊賀侵攻「天正伊賀の乱」を無…

神君伊賀(甲賀)越え⑤ 歪曲された情報の流布

伊賀越えにはルートや日数などにおいて、様々な説が混在し、我々はそれに混乱してしまった。なぜ、これほどまでに多くの異説が存在するのだろうか。これについて久保文武氏は「家康の伊賀越危難考」の中に「雑書の混乱」という章を設け詳細に検討を加えてい…

神君伊賀(甲賀)越え④ 3日目その2(柘植~岡崎)

柘植(つげ)(伊賀市) 柘植から鹿伏兎(加太・かぶと)に向けて、柘植三之丞や米地九左衛門半助らが案内する。柘植氏と鹿伏兎衆は不仲のため、柘植は引き返すが、米地は故あって見知られていないので、引き続き案内した(「寛政重修諸家譜」柘植三之丞)と…

神君伊賀(甲賀)越え③ 3日目その1(伊賀越えか甲賀越えか)

家康が信楽の小川城を出発したこと、またその後に柘植の徳永寺で休んだことは、ほとんど異論を挟む余地がない。しかしその間、どのルートを取ったのかは、江戸時代初期より諸説入り乱れ、現在においてもいまだ決着していない。今回は主に知られる①甲賀郡内を…

神君伊賀(甲賀)越え② 1、2日目(堺~信楽・小川城)

家康、堺を出発 午前5時頃、家康一行は堺を出発した。京への道中、行き交う人々が騒がしい。聞くと、本能寺で「喧嘩」があったという噂もあり、一同心配していた。「譜牒余録」の永井万之丞の項には、 路次にて京より罷下ル下々、何と哉覧騒敷(さわがしき…

神君伊賀(甲賀)越え① 概要

概要 天正10年6月2日早暁、京都・堀川四条の本能寺に宿泊していた織田信長と、烏丸御池の妙覚寺にいた織田信忠は、重臣・明智光秀に攻められ、敢えなく自刃した。世に言う本能寺の変である。この時、大坂・堺にいた徳川家康は、軍勢を引き連れていないことか…