天正伊賀の乱 その1

 2017年7月、和田竜原作の映画「忍びの国」が公開されました。この映画が描くのは、伊賀国を攻めた織田軍と、自分たちの土地を守るために戦った伊賀衆のバトル=「天正伊賀の乱」です。主な戦闘は天正7年と天正9年の2度あり、俗に第一次天正伊賀の乱、第二次天正伊賀の乱と呼ばれます。

 ご存知の通り、第一次天正伊賀の乱で伊賀衆は、攻めてきた織田信雄の軍勢を敗退させることに成功しました。後の忍術伝書「万川集海」でも、信雄と信長を混同しながら「信長公ほどの強将たりと云えども伊賀に於いては敗北したまうなり」と誇らしげに書いています。本記事では、天正伊賀の乱を、その発生前から時系列に沿って解説していくことにします。

 

戦国末期の伊賀

 天正7年の11年前、永禄12年(1568)の伊賀から話を始めましょう。この当時、伊賀の守護は仁木(にっき)氏でした。北接する近江は六角氏が守護を務め、東接する南伊勢は国司の北畠氏の勢力下にありました。

 仁木氏は伊賀の守護ではありましたが、その勢力は伊賀国北西の阿拝郡の中の、さらに一部にしか過ぎませんでした。つまり国を統べる守護としては機能しておらず、自立性の強い小領主(=土豪)が、伊賀国内に割拠していました。伊賀では現在でも、畑の中に木々に覆われた屋敷が点在する風景を目にすることができますが、それら1つ1つが中世城館跡なのです。この当時、実質的な支配は在地の土豪たちが行っており、北伊賀は六角氏の被官、南伊賀は北畠氏の被官となる形で、それぞれ隣国との良好な関係を保っていました。

 しかし永禄12年、伊賀を取り巻く環境は急変します。5月、織田信長は近畿の武力平定をすすめるべく、北畠氏のいる南伊勢攻めを開始。北畠具教の激しい抵抗もあり、最終的には和睦となりましたが、これは北畠氏が実質降参することを意味しました。と言うのも、このときの和睦の条件として、織田信長は次男の信雄を北畠家に婿入りさせ、織田家北畠家を乗っ取る形を取ったのです。

 この戦闘の間、伊賀では守護の仁木長政が織田に降伏します。仁木はいち早く織田側になびくことで、伊賀国内での勢力向上を狙ったと考えられています。この後全国統一に王手をかける信長にくみした先見性はありましたが、この仁木氏の選択は結局失敗に終わりました。伊賀国内は織田になびくどころか、反信長の感を強めていたからです。

 戦の最中であった9月には、甲賀の誘いに応じて伊賀が反信長として蜂起するという噂が流れました。

(永禄12年9月)七日(中略)、甲賀衆、伊賀惣国を催て江州一揆蜂起歟の由(多聞院日記)

結局この蜂起はありませんでしたが、伊賀国内は反信長で一致しており、そうした中で仁木氏が勢力を向上させることはありませんでした。その後の仁木氏は緩やかに勢力を落とし、伊賀の有力地侍の1人になっていきます。

 10月、先述の通り信長の伊勢攻めは北畠氏の敗北に近い形で決着します。三重大学藤田達生氏の説を採れば、このとき、あの「伊賀惣国一揆掟書」が作られることになるのです。

 

伊賀惣国一揆掟の制定

 伊賀惣国一揆とは、伊賀国内の地侍たちの集合のことで、特定の争いのことではありません。掟は伊賀国内の地侍たちが定めた国のルールということになります。この掟書は、作られたのが11月16日ということしか分かっておらず、何年に作成されたのか明確ではありません。さらに言うと、伊賀の掟書とも書かれていないのです。

 実は伊賀惣国一揆掟書として知られる文書は、もとは甲賀郡中惣の掟書だと考えられていました。と言うのも、この文書は甲賀の有力者の山中氏の文書群(山中文書)から発見されたからです。しかしながら岡山大学(当時)の石田善人氏によって伊賀の掟書であることが明らかとなりました。なお石田氏は、この掟書が書かれた年について「断定することは不可能」としつつも、天文21年(1552)~永禄11年(1568)の間と推定しました。しかしこの年代については、三重大学藤田達生氏によって矛盾が指摘されており、「近々甲賀と合議する」などの表記は対信長を想定したもの以外に考えられないとして、永禄12年に比定(年代推定)されています。掟書の末尾にある「近々甲賀と合議する」などという中途半端な記述は、掟書が急ごしらえで作られた証左であり、こうしたことも信長が伊勢を勢力下に収めた永禄12年ならば納得することができます。

 

信長と伊賀・甲賀の対立

 元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を攻めていた信長の背後を、北近江の浅井長政が突き、信長は京都へ一旦退却します。世に言う、金ヶ崎の退き口です。これを見た六角氏は反信長の軍事活動を活発化させ、東海道を封鎖します。しかし信長は近江国日野の蒲生氏郷らの手引きもあって、伊勢の千草峠(現在の三重県三重郡菰野(こもの)町)の「千草越え」を経て本城の岐阜城へと帰還します。このとき六角義賢は、配下の甲賀者で、鉄砲の名手だった杉谷善住坊を千草峠に派遣しました。行軍する信長めがけて撃ち放った鉄砲は、信長をかすっただけに終わり、杉谷は即刻逃亡します。

 6月、六角軍は野洲川の合戦(野洲河原の戦い、落窪合戦とも)で、伊賀・甲賀の者と共に、織田方の柴田勝家らと戦います。しかし大敗を喫し、この戦で三雲氏をはじめ、甲賀・伊賀の侍780余名が討死しました。しかし、伊賀・甲賀は信長に屈しませんでした。

 3年後の天正元年(1573)10月、第二次伊勢長島攻めとして、伊勢の一向一揆を追い詰めるべく、伊勢に出陣していた信長が、戦場から帰還しようとしているところを、伊賀・甲賀衆が伊勢の山中で襲撃します。

十月廿五日(中略)、信長のかせ(逃せ)られ候を見申し(中略)、伊賀・甲賀のよき射手の者共馳せ来って、さしつめ引つめ散々に射たをす事際限なし。雨つよく降って、鉄砲は互に入らざる物なり。(信長公記

ちなみにこの先月、千草峠で信長を襲撃した杉谷善住坊が捕らえられて、岐阜で鋸引きの刑に処されています。

 そうした中で、伊賀と甲賀は信長との距離を微妙にしていきます。天正元年頃とされる甲賀の文書(山中文書)では、「織田が甲賀へ攻め込むと言ったとき、伊賀は甲賀の味方をすると言ったのにも関わらず、伊賀は通告無く織田と和睦してしまった」として、苦情を書き連ねています。さらに「この世上では、必ず甲賀は信長に攻められる。その時甲賀は正常を保つことができるだろうか。その時、伊賀に協力を要請しても歯痒い状態であれば、甲賀は打ち果ててしまうだろう。もしそうなれば、即座に伊賀も打ち果てることだろう」として、甲賀と伊賀が一致団結しなければ、共に倒れる未来しか無いことを主張しています。しかし現実は、これとは異なる方向へと進むことになります。

 

 伊賀を取り巻く状況の悪化

 天正2年(1574)3月、信長は家臣の佐久間信栄にとある書状を送ります。そこには「甲賀郡内の者共の礼、その意を得候」(伊賀市史より抜粋、山中文書)と書かれていました。佐久間は甲賀郡中惣の調略に当っており、それに成功したのです。これは甲賀の者たちが織田軍に下ったことを、信長自身が認めた書状です。遂に甲賀は、織田の勢力下となったのでした。なお甲賀衆の全面的な協力を得られなくなった六角義賢は、信楽周辺に身を潜めて、しばらく歴史の表舞台から去ることになります。

 さて天正3年(1573)、伊賀を取り巻く状況は悪化の一途をたどります。北畠具教は婿養子の北畠(織田)信雄へ、正式に家督を譲ります。このとき具教は、隠居城として伊賀に丸山城の建築を試みますが、なぜ伊賀の中央に隠居城を造営しようとしたのかは、分かりません。伊賀で勢力を回復させ、ゆくゆくは伊勢の信雄を追い出したかったのかもしれません。しかし、信長の反対などから工事は中止となり、三瀬(三重県多気大台町)に場所を代えて隠居することになります。しかし、この隠居生活も長くは続きませんでした。翌天正4年(1574)織田信長・信雄父子は、家臣に命じて北畠家を急襲。具教は殺害され、北畠家旧領の南伊勢は名実ともに織田信雄支配下となったのです。(つづく)