神君伊賀(甲賀)越え④ 3日目その2(柘植~岡崎)

柘植(つげ)(伊賀市

 柘植から鹿伏兎(加太・かぶと)に向けて、柘植三之丞や米地九左衛門半助らが案内する。柘植氏と鹿伏兎衆は不仲のため、柘植は引き返すが、米地は故あって見知られていないので、引き続き案内した(「寛政重修諸家譜」柘植三之丞)というが、どうであろうか。
 「慶長見聞記」(「慶長見聞集」とは異なる)には、他の伊賀衆にも鹿伏兎までの案内を要請したが、聞かずに帰ってしまったという。 家康の案内をした伊賀者は、実際にはかなり少数であった可能性が高い。恐らくお供に参った伊賀者のほとんどは柘植氏の親類であり、柘植~鹿伏兎のJR関西線1駅分を案内しただけだろう。伊賀越えでは服部半蔵の功績が語られることが多いが、これは後に伊賀者が服部半蔵配下として召し抱えられたことに由来するものであり、三河生まれの服部半蔵正成が実際に伊賀越えで役割を果たしたとは考えにくい。むしろ伊賀での功績は柘植一族にあるだろう。
 柘植の徳永寺には、家康が立ち寄って休憩したという寺伝がある。そのときの由緒で、葵の御紋の使用を許され、今もなお堂の瓦に葵の御紋が光る。また江戸時代を通して藤堂藩より土地が寄進され、別格の待遇を受けていた。

加太(亀山市
 柘植から案内をした柘植三之丞と米地半助はここで帰ったと思われる。ちなみにこの両者は後に旗本になっている。
 当地の鹿伏兎衆は、案内の要請に応えず、「色めきだっていた(ざわついていた)」という(「譜牒余録」永井万之丞)。しかし「石川忠総留書」によれば、野呂という者が家康にお供し、関(亀山市)まで案内した。

稲生(鈴鹿市
 関、亀山を経た家康一行は、一説には稲生(鈴鹿市)に至った。ここ稲生には「落馬地蔵」という地蔵が祀られている。言い伝えでは、家康は逃避行中にここで落馬したところ地元の青年に助けられたという。家康没後、土地の人によって落馬した地点に地蔵が祀られたが、現在は近くの福楽寺に祀られている。また家康一行は乗ってきた馬をここで放ったという。船に載せられないからである。稲生は白子に東接した地区で、港は目前であった。

 

白子(鈴鹿市
 家康一行は船で伊勢湾を横断し三河を目指す。一行がどこから船に乗ったのかは、はっきりしない。「石川忠総留書 乾」を見ると、すでに江戸前期の時点で、四日市か白子か分からなくなっている。よって、ここでは断定せず、それぞれの乗船場の説について紹介したい。なお、伊勢湾に沿って南から白子、長太(なご)、四日市の順に存在する。

①白子(鈴鹿市…多くの由緒書において、家康は伊勢の白子に至ったと書かれる。由緒書だけでは心もとないが、「御庫本 三河記」にも白子と書かれ、また最短で伊勢湾に出られるルートでもあるので、合理性もある。
 一説には、家康は白子の商人角屋(かどや)の船に乗ったらしい(「徳川実紀」)。角屋は古くからの廻船業者で、天正3年の対武田勝頼戦において、すでに家康に協力している。角屋は船中で鰹のたたきを献じ、刀と時服を拝領したという。この後、角屋は家康から領国内の航行自由の朱印状(大坂の陣後は、全国航行の朱印状)を与えられたと伝わる。

②長太(なご)(鈴鹿市…「石川忠総留書 坤」で採用されている説である。同書によれば、四日市に行き、ここで水谷九左衛門光勝から食事を献上され、その後「那古」から船に乗ったという。久保文武氏はその論考で、家康が乗船したのは長太浦と比定した。長太は四日市と白子の間にあり、これが後世の文書の混乱を生じさせた原因ではないかと指摘している。

四日市…「戸田本 三河記」には四日市と書かれる。『鈴鹿市史』によれば、当時の四日市港は奈古浦と呼ばれていたという。つまり②長太の根拠となっている「那古」は、現在の長太ではなく、四日市である可能性が考えられる。

 他にも、長太の服部平太夫が船を出し、論功行賞の証拠に金扇を裂いてその片割れを頂戴したとか(「高野家家譜」)、白子近くの絵島の小川孫三が、単身逃げ延びてきた家康を助けて船を出したとか(「小川家由緒書」)、家康家臣の酒井重忠は当時三河にいたが、家康逃避行を聞いて白子に駆けつけ船を提供したとか(「寛政重修諸家譜」酒井重忠)、諸説混乱している。私見を述べると、最短距離でもあり、その後の由緒書でも多く引用される「白子」が、やはり最も有力ではないだろうか。

 

大浜(愛知県碧南市
 伊勢国を船で出発した家康一行は、三河国で下船する。到着地は常滑(愛知県常滑市)とも、大野(常滑市の北部に位置し、知多市との境近く)とも、大浜(愛知県碧南市)とも云うが、これは大浜で間違いない。なぜかと言えば、到着した家康を迎えに行った松平家忠が、自身の日記『家忠日記』に「大浜へ御あかりにて、町迄御迎えに越し候」と記しているからである。

 一方、ウェブサイト「戦国浪漫」では、伊勢から直接大浜へ行ったのではなく、一度常滑で上陸し、知多半島を陸路で横断した後、成岩(ならわ・半田市)から再度船に乗り、幅狭の衣浦湾を渡って大浜に上陸したのではないかと指摘する。詳しくはリンク先をご覧頂きたいが、その理由として、当時の一般的なルートで伊勢~常滑(または大野)という航路が存在したこと、成岩の常楽寺に家康が立ち寄ったとする寺伝があること、そして知多半島を大きく回って大浜に直接行くのは少し無理があるということが挙げられている。

 実際に最も合理的な、最短経路を考えると、上記の常滑~成岩~大浜ルートになる。またこのルートであれば、常滑、大浜の両説とも正しいということになり、諸書の混乱にも説明がつく。成岩について言及する書物は非常に少ないが、『石川正西見聞集』には「しろこ(白子)より御舟にめし、三河の内ならわ(成岩)へ御着船」と、船の到着点として書かれている。以上から、常滑~成岩~大浜ルートは、極めて強力な説だと言えよう。

岡崎
 大浜に上陸した家康は、『家忠日記』の著者でもある松平家忠らに迎えられ、居城の岡崎城へ戻る。堺を出発して丸々3日あるいは4日目になっていたかもしれない。岡崎に帰還した家康は、明智光秀討伐に向けて準備をするのであった。