甲賀古士その2 甲賀古士のシュウカツ

 東京竹橋の国立公文書館に、忍術伝書「万川集海」が保管されている。かつて江戸幕府が所蔵した文書は、明治維新を経て太政官、次いで内閣の蔵書となり、現在は内閣文庫を構成する。「万川集海」もその1つとなった。ここでは、「万川集海」が幕府の所蔵するところとなった理由でもある、甲賀古士の就職活動記録を紐解きたい。

 

訴願のきっかけ

 甲賀古士の幕府への仕官活動は寛文7年(1667)から始まる。江戸で幕府要人に対して訴える活動は、将軍家綱の死去による一時中断や活動していた惣代の死去などを乗り越え、元禄9年(1696)まで続くが、資金も尽き果てこの年を最後に中絶した(この寛文7年に始まる古士の仕官活動を「寛文訴願」と呼びたい)。 

 約100年の時を経て、再び彼らは活動を始める。そのきっかけとなったのは、老中・松平定信の上洛である。「寛政の改革」の指導者としてよく知られる松平定信が、京都に来た目的は、同年に発生した「天明の大火」によって焼失した天皇の御所を再建することであった。

 

 江戸を発った松平定信一行が、近江国甲賀郡に差し掛かったのは、天明8年(1788)5月4日のことである。大原数馬隠岐善五郎・上野八左衛門・隠岐守一郎の4人は武佐宿(近江八幡市)の本陣(大名などの宿舎)を尋ね、定信へのお目見えを願い出た。取次である横村儀兵衛が対応に当たり、本陣の玄関で古士たちの由緒書をざっと検分した後、このことは京都にて再び願い出られたしと伝えられた。翌朝、野洲川で渡河の際にお目見えを果たし、大原数馬・上野八左衛門の2人は京都へ向かうことになる。

 5月25日、甲賀を出発した大原数馬・上野八左衛門は京都へ入り、27日朝京都町奉行・池田長恵(ながよし)の役所へ行って届け出をし、そのまま松平定信の滞在する旅館の玄関へ赴き、願書を定信の配下の不破紋佐に提出した。その願書の内容は、鵜殿退治から島原の乱までの甲賀者による徳川家への忠節を述べた上、「渇命仕らずほどの御手当」を要求するものであった。29日まで京都に滞在したが明確な返事を貰うこともできず、30日昼過ぎに京都を出立夜は途中で宿を取り、翌日夕方甲賀の在所に帰村した。記録にはその日は雨が降り続いたとある肩を落としながら歩く、悲痛を帯びた2人の姿が想像できる。

 その後、松平定信が帰府する際に伊賀を通るというので、お目見えを企図する。当然京都で提出した願書への返事を期待したのだろう。藤堂藩へ届け出をした上で、伊賀を出立する6月8日、上野八左衛門・大原数馬・大原三之助・和田喜八郎・上野多真記の5人は柘植西柳丹で早朝より松平一行を待っていた。すると松平方より本陣に呼ばれ早速参上すると、定信は病気でお目見えできないと伝えられた。仕方なく見送りだけすることにしたが、当然返事を貰うことも叶わない。このままではどうにもならない。そう悟った甲賀古士たちは、約100年中断していた江戸での仕官活動を決断する。

 

江戸での仕官活動

 寛政元年(1789)2月29日昼過ぎ、はるばる江戸へと出てきた甲賀古士代表の上野八左衛門は、松平定信のいる屋敷の玄関へと向かった。屋敷の玄関で、大倉金太夫という者が取り次いでくれたが、「今日は甚だ御用多きにつき、ご面談致しかね」るとのこと。仕方ないので、「乍恐以書状言上仕候(おそれながらしょじょうをもってごんじょうつかまつりそうろう)」と見出しに書いた”願書”を大倉に渡し、しばらくそこで待つことにした。
 しばらくすると、大倉が来て、「とくと一覧」したと言い、後日回答したいとのことだったので、宿泊先を書いたメモを渡し、屋敷を後にした。
 翌30日昼過ぎ、松平定信より使いの者が来て、『明日四ツ時(午前10時頃)屋敷へ来るように』と伝言していった。

 さて、翌3月1日。松平邸へ行くと、少し話が違う。御用人・田村又市は「越中守(=松平定信)へお願いの趣(おもむき)、京都にても甚だ取込みまかりあり、覚え申さず」と言う。要するに、忙しくて忘れちゃった、という。さらに、多忙のため「とても取り上げ申すまじく」、困窮している件については「世間一統のことゆえ」特別扱いは出来ません、とのことだった。これもある意味当然のことで、実際困窮しているのは世間一般で珍しくもないことだったろう。東北での天明の大飢饉は終焉したものの、まだその記憶は新しく、しかも松平定信はその只中にあった白河藩の藩主である。さらに定信は「寛政の改革」に取り掛かっている最中で、老中としてただでさえ忙しいのに輪にかけて多忙を極めていた。しかし、甲賀古士も引き下がらない。先祖が徳川家の為に尽くした由緒があるのに、その家筋が絶えようとしている、と必死に訴えた。困った役人・田村又市は『越中守には伝えておくので、場合によってはお指図があるかもしれないし、また明日来てください』と言ってその日は終わった。

 翌2日、言われた通り来てみると、『間に合っていないので今日はお引き取りください』という。上野と大原は、もしかすると立腹して帰ったかもしれない。先方からは『こちらより使いを遣わします』とのことだった。

 少し日があいて3月5日、待ちに待った使いの者が来て、明日四ツ時に来てほしいと言われる。この感じ、前にもあったわ…。
 6日午前、松平邸へ行くと御用人・畑惣右衛門から、『願書についてこちらでよく調べたが、真偽がよく分からず、こちらでは取り扱えない』ので、寺社奉行・松平右京亮(輝和)へ再度願書を差し出すよう言われてしまった。

 

寺社奉行・松平輝和への訴願

 さて、気を改め3月10日午前、松平輝和邸へ向かい、玄関にて取次・神保弥三郎へ取次を願い、用人・神谷弥平に願書3通を渡した。輝和が外出しているので、午後また来て欲しいと言われる。
 昼過ぎ、松平邸で案内された席でしばらく待っていると、早速輝和から直接の吟味があるので来るようにと言われる。寺社奉行も幕府の要職ではあるが、老中やその他と比べてかなり時間に余裕のある役職だった。あれほど拒否された老中松平定信に比べ、即日で直接の吟味に至っていることからもよく分かる。以下、輝和と八左衛門のやり取りを載せたいと思うが、すでに藤田和敏氏が著書『〈甲賀忍者〉の実像』などで試みている。氏との重複を恐れるが(前回に引き続いて恐縮だが)、自分なりに書いてみたい。

輝和「そのほうは、上野八左衛門か。年は如何ほどか。また家には何人いるか」
八左衛門「年は39歳、家には3人がおります」
輝「先だって越中守(松平定信)に出した願書には困窮していると書かれているが、田畑はどれほど所有しているのか」
八「困窮しており、生活する上で余計には所持しておりません」
輝「では少しも持っていないのか」
八「持高は10石余りでございます」
輝「昔からその石高なのか」
八「昔は800石余り所持しておりましたが、分家などによって減り、私の親までには50石になっておりました。その親の代で困窮し、良い場所は質に出してしまったり年貢を払えない代わりに差し出してしまったりして、現在残っているのは10石だけにございます」
輝「差し出した田畑の証文は持っているのか」
八「証文なども所持しておりますが、かつてより所持していたことを示す証文はございません。しかしながら、これは村方名請帳を吟味下さればお分かり頂けるかと思います」
輝「地頭(地方を知行する役人)からの扱いはどうなっているのか」
八「地頭からの扱いは特別ということはございません。また私たちの苗字帯刀をご承知なのかも分かりません」
輝「奉行所へ出る者の苗字帯刀はもちろんのことで、それは特別な扱いということにはならない。他に年貢や郷代官への年始の挨拶など、特別なことはないか」
八「お尋ね頂きましたが、そのようなことはございません。もっとも地頭様が大津へ派遣される役人も、年貢の取立が済めばすぐに江戸へ帰ってしまうので、諸事届け出も不要です。仲間の内には、毎年出頭して年始の挨拶をする者もおります」

 以下、寺社奉行・松平輝和と上野八左衛門の質疑応答が続く。
輝「願書には数度、御密事の御用を仰せ付けられたとあるが、これはどのような御用なのか。尤も密事であるので申し上げることもできないのだろうが、仲間の間に書き置きしたものなどは無いのか」
八「これらは誓紙を以てお請けしたことで、書き残したものはございません」
輝「島原一揆の時、伊豆守(松平信綱)に残らずお供したのか」
八「惣代10人がお供いたしました」
輝「その名前は覚えているか」
八「分かりますが、間違いがあっては恐れいりますので、書付を以て申し上げたいと存じます」
輝「その仲間の忍術秘事を封じたまま提出することはできないか」
八「恐れながら、私1人でお請け申し上げることはできかねます。もっとも書面は差し上げご覧に入れることはできます」
輝「その書物は何冊あるのか」
八「およそ20巻ほどでございます」
輝「その枚数はどれほどか」
八「多くありまして20枚ほどでございます」
輝「仲間のうち幼少の者がいるときは、その術・書物などは、そのままに差し置くのか」
八「幼少の間は書物等仲間の老年の者が預かり、成人したら、口伝は口伝し、書物は渡します」
輝「御盃はあるのか」
八「仲間の中で預かっております」
輝「その仲間に昔より伝わる書物はあるか」
八「恐れながら私どもの系図と私の書き置いた昔の書物はありますが、御上より頂いた書物等はございません」
輝「写しであっても、古い書物は提出するように」

神谷弥平から追加の質問があり、
弥平「持高10石にて、どれほど納米しているのか」
八「5石を納めます。もっともこれは年ごとに異なるものでございまして、殊に油日村は土地が悪く、地頭様が取るのは少しですが、諸役(雑税)・万雑(まんぞう、土木用水経費や自治会費)を払っておよそこのようになります」
弥「ならば5石は納めて、残り5石で家を扶持しているのか」
八「左様でございます。そのため困窮し難儀致しております」

 松平輝和から直々に、①年齢と家族構成②所有田畑③村の領主からの待遇④先祖が勤めた御密事の御用とは何か⑤島原の乱での御供について⑥忍術秘事の提出について⑦忍術の相伝について⑧鵜殿退治の折に家康から賜った盃について⑧二十一家に伝わる古文書について、尋ねられた。最後に古文書は提出するようにと命じられた。退出すると神谷から毎年納めている米の量について尋ねられ、その後八左衛門は松平邸を後にした。夜の五ツ時(=午後8時頃)であった。

 

秘書『万川集海』の提出

 翌日の3月11日、今夕七ツ時(=午後4時前)に来るよう手紙が届く。承知の旨返信した上で参上。神谷から質問を受け、八左衛門は秀吉の紀州雑賀城攻めのこと、知行取上げとなって浪人したこと、故郷に戻って田畑を耕す生活となり、年貢は納めながら、当初は免除されていた諸役・万雑も賦課されるようになり、生活が厳しくなっていることを述べた。特に近年は諸役等を勤めなければその土地に住み続けることもできないほど難儀しており、これらをお聞き届け、何卒由緒を立てて下さるようと訴えた。その後古くから伝わる仲間の申合せを示す文書を提出し、その日は退出した。

 16日5半時、今日9半時に来るよう手紙が届き、出頭。神谷より「先だって申した書物、また書き置いた古い書面を提出するべく国許へ申し遣わし、更に詳細を申すよう」伝えられ、翌17日、国許へ手紙を送った。

 約ひと月を経た4月11日、ついに甲賀より大原数馬隠岐守一郎が書類を携えて江戸へやって来る。しばらく休息も兼ねて江戸見物でもしたのだろうか。先方への届け出は14日におこなった。

 15日、早速使いの者が来て、今日の正午に書類を持って来るよう伝える。但し極秘『万川集海』は、持ってこなくて良いとのことだった。
昼、3人で松平邸へ赴き、神谷と面談。①島原一揆の記1通②足利義昭書1通③滝川一益書1通④御盃⑤3人各々の系図(上野富田・大原笹山・隠岐竹山)計3通をご覧に入れた。忍術の書について尋ねられたので、「忍術書は万川集海というもので、10冊に軍要秘記が1冊あります」と答えた。島原一揆の書面を差上げるべく、退出した後、宿で少し休んでから八左衛門だけで持って行った。

 その後、16日は守一郎だけ呼ばれて、出頭。系図についてお尋ねがあった。19日は数馬だけが出頭し、盃と秘書「万川集海」の提出を命じられた。

 そして4月20日七ツ時(午後4時頃)。3人で松平邸へ出頭し、①御盃②万川集海 10冊③軍用秘記1冊を提出した。その他に望月仙蔵家に伝わる古い巻物(忍術応義伝?)も提出した。

 23日、数馬が出向くと、神谷より「御老中方へ差出して吟味するため3,40日はかかる。その間江戸に逗留するのも如何かと思う。江戸には1人いれば間に合うものの、書物を1人で持ち帰れるだろうか」と言われ、仲間と相談しますと答えて帰る。翌24日、八左衛門が出頭し、守一郎1人が帰ることを伝えた。

 27日、神谷から「なにぶん多忙の老中方でのことなので、いつ結果が出るか分からない。1人ではなく2人帰ってはどうか」と言われ、「では数馬・守一郎は帰ります」と伝えた。しかしその夕方、明後日に分かるかもしれないので、一旦帰村を見合わせて欲しいと手紙が届く。ここからは、甲賀古士3人は幕府の都合に少々振り回されることになる。分かるかもしれないと言われた明後日の29日、やはり分からなかったと言われ、代わりに5月2日か3日に来て欲しいと言われる。5月2日赴くと、やっぱり分からないので、1人残って2人帰村するよう言われるのであった。これを受けて、6日にまず隠岐守一郎が帰村した。

 しかし、この5日後、古士たちが待ちに待った”結論”が下ることになる。11日、使いの者が来て、今夕来るよう伝えられる。松平邸へ行くと、輝和より直に結果を伝えられた。「このたびの願い出は聞き届けることはできないが、忍術の書物大切に伝え残していることは奇特(殊勝)である。今後も心掛けるように。」書類は返却され、御褒美として、江戸に出府した3人に銀5枚ずつ、忍術を伝える8人に銀2枚ずつ、それ以外の8人に銀1枚ずつが下賜された。

 褒美の銀にも受領証というものがあるらしく、翌12日、出頭して受取証に捺印。返却の書類も受け取り、これまた受取証に捺印した。神谷から御礼回りは不要と言われるも、定信の用人にも世話になったので、彼らに御礼したいと述べる。一旦退出して再び赴き、松平輝和の用人へ御礼を述べ、神谷にも礼を述べた。少し日が開いて17日、松平定信邸へ赴き、用人・畑惣右衛門に訴願の顛末と御礼を述べたのだった。

 

寛政訴願のその後

 幕府の回答は「今更どうすることもできない」というものであったが、訴願に来た3人は甲賀に戻った後、「御褒美も貰ったので、きっとそのうち御沙汰があるだろう」と話している。彼ら自身が、それをどの程度信じていたのかは分からない。しかし幕府から由緒を認められ、少ないながらも銀を拝領したことは、歴とした「甲賀古士」のお墨付きをもらったということであり、在地で没落しつつある彼らにとって嬉しくないはずがなかった。しかし二十一家でない者にとっては、必ずしも喜ばしいことではなかった。後に「二十一家に入れてもらえなかった」者が、自家も二十一家の内として認めてくれるよう江戸に来て談判するという事も起こっている。ここではこれ以上触れないので、詳しく知りたい方は藤田氏の著書を参照されたい。

 甲賀古士の江戸での訴願活動は、古士たちが書き残した『在府日新録』および『甲勇記』に依った。これらでは、提出した書類はすべて返却されたかのような書き方となっているが、実際には「万川集海」および「軍要秘記」は幕府の蔵書となった(※)。彼ら甲賀古士の忍術の証拠として提出された「万川集海」であるが、明治維新を経て、今なお日本の国家機関に残っているというのは面白い。
 甲賀古士たちは、京都所司代への訴願など、その後も仕官活動を緩やかに続けていくが、結局願い叶うことはなかった。農民身分の彼らが再び軍事活動に身を置くのは、幕末文久3年(1863)の甲賀勤皇隊の結成まで待たねばならない。

 

※【2022年4月3日追記】内閣文庫本の「万川集海」と「軍要秘記」について、ながらく甲賀古士が献上したものだと考えられてきたが、他の写本と比較して誤写が多く、松平輝和が預かっている間に幕府の者によって写された物である可能性が高いという(福島嵩仁「「万川集海」の伝本研究と成立・流布に関する研究」)。甲賀古士の記録との齟齬も解消されることから、幕府が写したものと考えて良いのだろう。