神君伊賀(甲賀)越え③ 3日目その1(伊賀越えか甲賀越えか)

 家康が信楽の小川城を出発したこと、またその後に柘植の徳永寺で休んだことは、ほとんど異論を挟む余地がない。しかしその間、どのルートを取ったのかは、江戸時代初期より諸説入り乱れ、現在においてもいまだ決着していない。今回は主に知られる①甲賀郡内を通り伊賀を迂回するような「甲賀越え」②信楽から伊賀丸柱へ出て、そのまま東進して柘植に至る最短コース「桜峠越え」③少し前まで通説として知られていた「御斎峠越え」の3つを取り上げる。

 

信楽~柘植① 甲賀越え
 「戸田本 三河記」には、伊賀越えではなく「甲賀越え」と表記される。伊賀国内は、同年の「第二次天正伊賀の乱」において、家康の同盟者である信長によって焼き討ちにされた。そのため家康が伊賀国内を通るのには、危険があった。前日に泊まった信楽小川城は甲賀武士・多羅尾家の居城であり、当然甲賀郡内の方が親しい者が多い。また、人質を出したことに家康が礼を述べた「和田家文書」、家康から蒲生氏に出された手紙の写し「山中文書」の2書は、家康伊賀越えにまつわる唯2つの貴重な一次史料だが、いずれも甲賀のものである。特に人質を出した和田家文書は重要で、和田氏の根拠地・甲賀町和田(JR油日駅近く)を経由した可能性は十分考えられる。それどころか、これら一次史料にのみ忠実になるなら、「甲賀越え」一択なのである。では、その甲賀越えはどのようなものであったか。ルートを検討すると、概ね以下のようになることが指摘されている。

  小川…信楽・小川城
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  上磯尾…当地の明王寺(甲南町上磯尾)に徳川家康から、4代将軍・家綱までの位牌が祀られている
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  毛枚(もびら)…山岡氏の根拠地。甲賀町毛枚。山岡氏も家康に協力したと見られ、後述する
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  和田…和田氏の根拠地。甲賀町和田
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  柘植…徳永寺(伊賀市柘植町)

 甲賀在住の渡辺俊経氏は、天正伊賀の乱のあった伊賀を経由するのは考えにくく、小川城において甲賀衆の協力も得やすい、さらに多羅尾、山口、山岡、和田の4家とも、後に江戸幕府の旗本になっていることを考えれば、甲賀越えで間違いないだろうと主張する。「神君伊賀越え」は実質的には「神君甲賀越え」であり、柘植を加味して、「神君甲賀伊賀越え」と呼称すべきとする。渡辺氏の考察については、甲南地域史研究会の会誌『地域の歴史』Ⅳに収載された「「甲賀忍者論」入門」の一節「神君甲賀伊賀越えの真相」に詳しい。

 

信楽~柘植② 丸柱(桜峠越え)
 藤堂藩伊賀の加判奉行・石田清兵衛の覚書である「統集懐録」(延宝年間頃成立)に、「江州信楽の神山より伊賀国丸柱村へお越しの時、宮田と申者をお尋ねなされるに付き、宮田新之丞まかり出候へば、御腰かけなされ、昼膳を上げ申し候、川合村を通り柘植まで宮田お供、まかり帰り申す時、山川と申す御馬拝領仕り候、それより柘植の米地と申す侍、伊勢加太境までお供仕り申し候、その後両人の者ども召しだされ御ふち(扶持)申付け候事」とある(久保氏前掲論文)。宮田新之丞という者が丸柱~柘植を案内し、帰り際には「山川」という馬を拝領したという。この宮田という名は、「石川忠総留書」にも現れ「小川村御立ちなされ、多羅尾勘助ご案内仕り、丸柱村へお供致し、宮田と申す仁加わり、柘植まで送り、柘植より小目地九左衛門、柘植平弥両人ご案内仕り、鹿伏兎へお供」とある。
 また「慶長見聞記」には「信長生害の時、伊賀をお通りなされ候時、人質を出し送り申し候、その時鹿伏兎まで送り候へと仰せ付けられ候へどもお受け申さずまかり帰り候、その後天下御安治の時分、その時ご案内申し候、宮田権右衛門、米地半介などと申す者、少々召しだされ候間…」とあり、宮田の名は宮田権右衛門と書かれる。この宮田権右衛門、実は後年、意外なところで名前が現れる。
 慶長9年、江戸幕府服部半蔵正就配下の伊賀者らは、正就の罷免を求めて行動を起こす。『伊賀者由緒並御陣御供書付』によれば、このとき伊賀者の責任者の1人として「宮田権右衛門」が切腹となった。この宮田は伊賀者の中でリーダー格であったことが容易に想像でき、この宮田こそ、丸柱で家康を案内した宮田権右衛門(新之丞)であった可能性が高い。
 経路としても最短で合理的であり、私としては桜峠~丸柱説を推したい。なお、私のルート選定については、本稿「考察」において再び触れる。

 

 信楽~柘植③ 御斎峠越え

 少し前まで通説となっていたのが、「御斎峠越え」である。桜峠よりも南西に位置し、遠回りのルートになる。さらに南にずれる分、伊賀の中心地に近づき、極めて危険なルートでもある。現在は多くの郷土史家によって否定的に見られることが多いが、未だ可能性は排除できないと主張する人もいる。 

 小説や伝承?では、御斎峠で服部半蔵が「人寄せの狼煙」を上げ、それを見た伊賀者・甲賀者が集まり、家康を警護したなどと言われる。実際に地元では、御斎峠越えはかなり信じられていると聞く。
 御斎峠越えは山岡氏の由緒書に出てくるため、よく知られていた。しかし近年、これは囮(おとり)のルートだったことが多くの研究家より指摘されている。これについて、逸話がある。甲賀市信楽町多羅尾の浄顕寺に残る「十王石仏」は、かつて御斎峠にあった。本来は10体あるべきだが、9体しか現存しない。寺伝では、家康が桜峠越えをするのに合わせ、石仏1体を駕籠に乗せて、身代わりとして御斎峠越えをさせたのだという。山岡氏の由緒書については、次々回で再び触れたい。