神君伊賀(甲賀)越え② 1、2日目(堺~信楽・小川城)

家康、堺を出発

 午前5時頃、家康一行は堺を出発した。京への道中、行き交う人々が騒がしい。聞くと、本能寺で「喧嘩」があったという噂もあり、一同心配していた。「譜牒余録」の永井万之丞の項には、

路次にて京より罷下ル下々、何と哉覧騒敷(さわがしき)体、其上本能寺にて、喧嘩有之(これあり)候なとゝ致風聞候

と書かれる。

 

飯盛山四條畷市)にて本能寺の変を知る

 先を行っていた本多忠勝は、反対から大坂方面へ駆けてくる茶屋四郎次郎と出会う。茶屋は「本能寺の変」の急報を家康に伝えるべく、下洛していたところだった。茶屋の報告によって、信長自刃を知った本多は、急ぎ家康本隊へと戻るのである。

茶屋四郎次郎京都より荷鞍馬に乗来、通にて本多平八に逢候て(中略)公飯盛山近辺にて(「石川忠総留書」)

 午後2時頃、本多は飯盛山近辺にいた家康本隊へ駆け込み、信長自刃を報告した。これを聞いた家康は「弔い合戦をして負ければ本能寺で切腹する」と言って出発しかけたという。よく知られるエピソードとしては、「松平家菩提寺でもある知恩院に籠もって、信長の後を追い切腹する」と家康が言ったのを、家臣がなだめて伊賀越えに及んだというものがある。これは「石川忠総留書」にも登場する。家康のこの発言には、家臣の結束を固める目的があったとも言われるが、果たしてどうだろうか。家康が信長の後を追って自刃しなければならない理由も無く、むしろ天下を狙う好機となったのであるから「知恩院切腹」と言い出すことは考えにくい。

 さて、一度は京都本能寺へ進行した家康を、重臣の酒井・本多が説き、結局は三河へ帰国の方針となった。信長の家臣で、今回家康一行のお供をしていた長谷川秀一(竹)は、兎にも角にも京都へ行こうとした。が、京都はすでに明智勢の勢力下にあり、結局は全員で三河を目指すことになる(「譜牒余録」永井万之丞)。

 

尊念寺→草内の渡し→宇治田原・山口城

 家康一行は草内(京田辺市)において、木津川を渡河する。「本多家武功聞書」によると、草内の庄屋の子を人質にとって案内させた。木津川では柴を運んでいた船を岸に呼び寄せ、その船を使って渡ったと書かれる。「石川忠総留書」にも

川にいたって、柴つミ舟の下るを、便船候ハんよし申て舟はたに乗よせ、その舟を取て御供の衆まて無相違(そういなく)渡申候

とある。「本多家武功聞書」によると、本多は柴舟の底を槍で打ち抜き破壊した上で返却した。

 当初家康に同行していた武田旧臣・穴山梅雪は、家康一行より1里ほど(約4km)後ろを歩いていた。家康が木津川を渡っているころ、梅雪らは渡河するよりも早く草内の郷人らによって殺されてしまったという。一説には、梅雪は熨斗目(のしめ)を着用していたため非常に目立ち、また供回りも数少なかったことが原因だという。草内の南隣である飯岡(京田辺市)には穴山梅雪の墓が今も残る。

 一方、山口城主・山口秀康配下の新末景の子・末次が後年幕府に提出した「新重左衛門尉末次提出文書」によると、少し異なる。家康使いの者が山口城(宇治田原町郷之口)に、家康が来ることを伝えた。山口は城中を掃除させ、家臣の新主膳・市野辺出雲の2人に草内渡しまで迎えに行かせる。彼らは途中の市野辺村で人夫6,70人を連れていく。川を渡った家康は先に行かせ、2人は家康配下全員が渡るまで、川の西岸(大坂側)で見守った。渡河完了後、東岸へ戻る際、もと居た西岸で穴山梅雪の一行が、一揆の野武士に襲われているのを目撃したという。

 家康一行は少ない供回りと言えど、人足まで含めればそれなりの人数がいた。小さな舟で木津川を渡るのには、かなり時間を要したであろう。他に途中休憩も取りつつであろうが、全員が宇治田原・山口城に到着した頃には、すでに翌日の午前10時になっていた。

 

宇治田原・山口城に到着
 6月3日午前10時に家康一行は山口城に到着。家康を迎え入れた新と市野辺は、城主・山口秀康へ報告の後、城の大手門を堅く閉ざした。城では弁当が振る舞われたという(「忠総留書」)。休憩も束の間、2時間後の正午には出発となった(「新重左衛門書付」)。

 ここで、山口城主・山口甚介秀康について触れておきたい。彼は実は甲賀郡信楽の有力者、多羅尾光俊の三男・光広であった。三井寺勧学院にいたとき、織田信長の斡旋で山口家に養子入りした。多羅尾光俊は、同年の「第二次天正伊賀の乱」でも信長に付いており、長谷川秀一らによって、道中の協力を得たものと考えられる。

 

信楽・小川城
 信楽小川城は多羅尾光俊の居城である。「石川忠総留書」や「戸田本三河記」によれば、長谷川が使者として多羅尾を訪ね、多羅尾は門外まで迎えに来た。警戒して野陣を張ろうとする家康に対し、子息・光雅(久八)を人質に出し、家康ら数人を中に入れ食事を振る舞い、その後外にいたお供衆にも赤飯を振る舞ったという。

 しかし上記の通り、山口秀康と多羅尾光俊が実の親子であることを考えれば、山口配下の者によって既に連絡されていたと考えて良いだろう。小川城では、家康のお供衆も睡眠をとることができ、翌4日早朝に出発した。家康は多羅尾に金子10枚を賜り、伊賀までは久八が道案内をしたという。