手裏剣、「忍者」、萬川集海について

唐突ですが、①忍者の手裏剣のイメージ、②「忍者(にんじゃ)」という呼称、③「萬川集海(んせんしゅうかい)」の訓み、について最近気づいたことを書きたいと思います。

 

①忍者が手裏剣を投げるイメージの発祥

忍者が手裏剣を投げるイメージは何が発祥なのか、これはフィクションの分野に関わることなので、あまり本腰を入れて調べてきませんでした。ブログなんかでは「藤田西湖なんか手裏剣術も極めて著書もあるから、ひょっとしてその辺かもね」ぐらいの無責任な書き方に終始していた(忍術研究史その1 - 忍びの館の忍者コラム)ワケですが、どうも大正時代の立川文庫では、すでに手裏剣を投げているらしい。はてさてと考えていると、「Ninjack」さんで吉丸先生の記事(【Nin-Semi】みんなの忍者イメージはどこから来たの?忍者文学研究最前線! | Ninjack -すべての忍者をJackする-)が組まれ、手裏剣について言及されていました。詳細はリンク先のページで読んで頂くとして、結論を述べると、江戸中頃~の演劇の世界で登場し始めたようです。てっきりハットリくんあたりで一般化したのかと思っていましたが、「忍者といえば手裏剣」というオキマリは、意外にも歴史が深かったんですね。

 

②「忍者(にんじゃ)」という呼称について

いつから「忍者(にんじゃ)」という呼称が一般化したか。これは、何十年も前から議論があります。立川文庫などを引用して、大正時代までは「忍術使い」が一般的だったから、昭和、それも戦後の歴史小説で使われたのをきっかけに一般名称となった、というのが現在の通説です。一方、江戸中期に書かれた『萬川集海』などに「忍者」の熟語が出てくるので、これを根拠に、江戸時代からあったのではないか、という反論もかつてありました。しかしながら、江戸期に書かれた「忍者」は「にんじゃ」と訓(よ)んだ保証はどこにもなく、おそらく「しのびのもの」と訓んだだろうと考えられています。

さて、近代忍術研究の祖とでも言うべき伊藤銀月は忍者を何と言っているかというと、1917年(大正6)の『忍術の極意』では「忍術者」と書いており、まだこの時代には「忍者(にんじゃ)」という単語が無かったことが分かります。しかし20年を経た1937年(昭和12)の『現代人の忍術』だと「忍者(にんしゃ)」という単語が本文に現れます。では、その中間はどうかというと、1922年(大正11)の伊藤銀月『忍術と還金術』では「忍術者」、1925年(大正14)の富久谷秋『忍術・気合術・読心術極意秘伝』も「忍術者」、1936年(昭和11)藤田西湖『忍術秘録』では「忍者」となっており、少なくとも大正時代には「忍者」という言葉は存在していなかったと考えることができます。

忍者研究本では、富久と藤田の間に武道研究所(=藤田西湖?)『伊賀流甲賀流忍術の極意』という本が1934年(昭和9)に刊行されていますが、筆者未見のため、どう書かれているか分かりません。

気になるのは、藤田『忍術秘録』では、なんの断りもなく、突然「忍者」という単語が使われていることです。これは、小説などのフィクションの世界で、すでに「忍者」という言葉が使われていたことを意味するのではないでしょうか。如何せん私は忍者モノのフィクションに関する知識が薄いので、これより先は他人に委ねたいと思いますが、少なくとも「忍者」という言葉が使われ始めたのは、昭和に入ってから、ということは間違いないと思います。ここで強調しておきたいのは、戦前からすでに「忍者」という単語が使われ始めていたということです。ただ、どの程度一般化していたかは、ちょっと分かりません。今後の検討課題です。

 

追記・訂正

この記事を公開後、伊藤銀月『現代人の忍術』に出てくる「忍者」の訓みは「にんしゃ」で濁らない、とご指摘頂きました。確かによくよくルビを見てみると、「にんしゃ」となっており、我々がよく発音するような「にんじゃ」ではありませんでした。訂正させて頂きます。

さて、そうなると、藤田『忍術秘録』も(ルビは無いものの)「にんしゃ」と発音した可能性が高くなります。「忍者(にんしゃ)」が何かから発生し、それがあまり時を空けずに「忍者(にんじゃ)」になったと考えられます。にんしゃ、というのは少し発音しにくい言葉なので、自然発生的に「にんじゃ」になったのだろうと想像します。

 

③「萬川集海」の訓み「『ま』んせんしゅうかい」の初出について

すっかり「んせんしゅうかい」の訓みで統一された忍術伝書「萬川集海」ですが、その訓み方の書籍上での初出は「広辞苑(第四版)」ではないか、と指摘しておりました(万川集海は「まんせんしゅうかい」か「ばんせんしゅうかい」か - 忍びの館の忍者コラム)。が、さらに前に書かれた本で、「まんせんしゅうかい」とルビを振っているものを確認できたので、この場で報告したいと思います。

それは中沢圣夫『忍者と海賊』(三省堂、1978年)。甲賀の忍者の末裔を訪ねるというくだりがあり、甲賀の大原家を訪ねますが、そこに現れた『万川集海』のルビが「まんせんしゅうかい」でした。

過去を見れば、「萬川集海」という書名を初めて活字に載せた、井上吉次郎『秘密社会学』(時潮社、1935年)でも、筆者が甲賀の大原家を訪ねています。しかし同書にはルビが無く、何と訓むのかは不明でした。『忍者と海賊』は、子ども向けの本だったからこそルビが振られ、それが図らずも「まんせんしゅうかい」の初出になったのです。