甲賀古士その1 島原の乱

はじめに

 「甲賀古士」とは、甲賀在住の元侍衆の農民のことである。彼らは戦国時代、いわゆる”忍びの術”を以て諸国の武将に与し、時に反抗したと伝える。豊臣秀吉による甲賀武士の所領没収=甲賀ゆれ=によって、甲賀武士は没落。ある者は郷土に残り、ある者は郷土を出て新たな仕官先を求めた。おそらく郷土に残ったのは本家筋であり、外に出て行ったのは分家筋であろう。郷土に残った甲賀武士たちは、次第に農民となり、江戸時代には地元の有力百姓として存続していくことになるが、彼らは、①他の百姓家とは由緒が違い、ただの百姓ではないこと、②家々に伝えているという”忍術”をもって、幕府への仕官や生活の援助を希望すること、の2点を主張するため、自分たちを「甲賀古士」と称した。今回は、数回に分けて「甲賀古士」について取り上げていきたい。

 

 なお甲賀古士は「甲賀五十三家」の中でも、特に「甲賀二十一家」の末裔を指す甲賀五十三家は、かつて鈎の陣(長享元年=1487)において佐々木六角氏に与した甲賀地侍で、特に戦功のあった者を甲賀二十一家とした、といわれている。

 

島原の乱甲賀古士のはたらきは本当か

 島原の乱における甲賀古士のはたらきについて、有名なのは『鵜飼勝山実記』である。同書は『甲賀郡志』(1926年)に掲載されたことから、その後よく引用されるようになった。ほぼ同一の文書として、「甲賀肥前切支丹一揆軍役由緒書案」(山中文書)がある。この「甲賀肥前切支丹一揆軍役由緒書案」にはどう書かれているかというと、これは藤田和敏『<甲賀忍者>の実像』(2011年)ですでに取り扱われている。同書との重複を恐れるが、ここで簡単に「甲賀肥前切支丹一揆軍役由緒書案」を意訳・要約したい。なお『水口町志』(1960年)に史料として掲載されているものを底本とした。

甲賀古士は松平信綱の知る筋目の者であったので、松平に訴えたところ、次の10人の者が同行できることになった。それは、望月与右衛門、芥川七郎兵衛、山中十太夫、伴五兵衛、夏目角助、岩根勘兵衛、芥川清右衛門、鵜飼勘右衛門、岩根甚左衛門、望月兵太夫である。

総大将・松平信綱一行に加わり、寛永14年12月大坂を出航。翌年1月4日に到着した。6日、松平信綱甲賀者10人に対し、①敵城の塀までの距離と②その高さ、③矢狭間の形、④沼の深さについて詳しく調べ、絵図にして提出するよう命じる。早速その夜、芥川七・望月与・山中・岩根・望月兵の5名が敵城塀下へ忍び寄った。城中は(空堀に)松明を投げるなど用心していたが、味方の死骸に紛れて隠れ、城中が静かになったのを見計らって①二の丸出城までの距離、②沼の大まかな深さ、③道の良し悪し、④塀の高さ、⑤矢狭間の形状を調べ、忍び込んだ証拠として出城のカドに堅木を差し込んで帰還した。

11日に松平信綱は、兵糧1俵ぶん捕ることを鍋島勝茂が注進したので、甲賀者に相談するよう言った。松平に、米をぶん捕るなどは罪になると申し上げると「敵陣にとって兵糧は最も大切であり、1粒でも取り上げれば手柄になる」と言う。そこで早速その夜、黒田忠之の陣から敵城へと忍び寄り、海側に保管されていた兵糧を13俵盗み、松平に報告した。手柄を褒められ、それ以後は黒田の陣にいることになった。

城中で毎夜何か唱えているので、鵜飼・芥川七・芥川清・伴の4名は何を言っているのか密かに聞き出し、報告した。

27日、城中の様子を見るよう命じられ、望月与・芥川七・夏目・山中・伴の5名で忍び込むことになった。夜、城中が静かになるのを待った後、芥川七と望月与が潜入したところ、望月与が落とし穴に落っこち、敵が騒ぎ出した。なんとか引っ張りだして敵の中を駆け抜け、待機していた3人が2人を背負って脱出した。2人は石を大量にぶつけられ、半死半生だった。松平に報告すると、早速医師を付けてくれた。その後は8人で味方の陣の夜警などをした。 

 これについて、面白い指摘がされている。吉丸雄哉「近世における「忍者」の成立と系譜」(2012年)によると、甲賀者5人が城内に潜入したのと類似する話が、逸話集『明良洪範』巻17にあるという。類似というよりむしろ同一で、違いは芥川が菅川になっている誤記程度のものだ。「甲賀肥前切支丹一揆軍役由緒書案」は文書の末尾において享保6年(1721)に「うつし置」いたものと書かれる。一方、『明良洪範』はそれより前の宝永以前に書かれたのもので、どちらかがどちらかを参考にしたのではないかと吉丸は指摘している。また『常山紀談』(湯浅常山著、明和7年(1770)完成)に一揆軍が黒田忠之の陣を襲撃し、その兵糧を奪おうとするも撃退されるという話がある。攻守が逆であるが、甲賀者の話と似通ったところもあり、むしろ幕府軍甲賀者が兵糧を奪う必要がない(米が欲しい訳ではないので、放火して燃やしてしまえば良い)ので、甲賀者の由緒書は、この『常山紀談』を参考に書かれたのではないかと指摘している。

 実は甲賀古士による1600年代の寛文訴願(仕官願い)の際に提出した訴状では、この島原の乱について詳述していない。古士たちが『明良洪範』を見て参考にした可能性は十分考えられると言える。一方『常山紀談』については、草稿が完成するのが1739年で、刊行は1801年まで待たねばならない。甲賀古士たちによる第2の訴願、寛政訴願は1789年のことであるが、甲賀者の由緒書の出典を『常山紀談』に求めるのは、いささか無理があるだろう。

  『〈甲賀忍者〉の実像』でも指摘されているが、書かれている内容すべてを史実として鵜呑みにすることはできないものの、きちんとした事実として確認できる部分もある。島原の乱に参加した松平輝綱による『島原天草日記』には、由緒書の最後の話と合致する記述がある。

 (1月)十二日、十三日、十四日、十五日、近江国甲賀より来る隠形の者、城中に入らんと欲し、夜夜忍び寄る。然れども城中の賊、一人も西国語ならざるは無し。且、吉利支丹宗門の名門を称して、知るを得ざるもの甚だ多し。この故に、城中の賊と交居する能はず。一夜、城中に忍び入るの時、賊則ちこれを知りて之を逐ふ。ここに於て、塀畔の旗を取りて城外に出づ。賊、石を以て強くこれを打つ。

 由緒書の内容を全て史実として全肯定することはできないものの、功績に関する記述を差し引いた上で、概ね事実を語っていると判断しても良いように思える。

 

甲賀者10名の年齢

  さて、山口正之『忍者の生活』(初版は1963年)によると、甲賀者10名の年齢は、①鵜飼勘左衛門(54)②望月兵太夫(63)③望月与右衛門(33)④芥川清右衛門(60)⑤芥川七郎兵衛(25)⑥山中十太夫(24)⑦伴五兵衛(53)⑧夏見角介(41)⑨岩根勘右衛門(54)⑩岩根甚佐衛門(56)であったという。この年齢の出典が不明で、筆者は未だこれを求めることができない*1。同時代の甲賀者の年齢が分かる資料としては、島原の乱より4年前の寛永11年に、家光が上洛のため甲賀郡水口を通った際に集まった甲賀者の名簿録「寛永十一甲年 御上洛御目見江帳」がある。同書より計算すると、寛永15年時における参加メンバーの年齢は、②望月兵太夫(63)③望月与右衛門(33)④芥川清右衛門(59)⑤芥川七郎兵衛(29)⑥山中十太夫(24)⑦伴五兵衛(53)⑧夏見角介(助)(43)⑩岩根甚佐(左)衛門(56)となった。④、⑤、⑧で相違が見られ、また①鵜飼勘左衛門と⑨岩根勘右衛門については、そもそも名簿に名前が無く、年齢を求めることは出来なかった。とはいえ、山口正之『忍者の生活』で紹介されている年齢は、おおむね間違っていないと言うことが出来るだろう。

 その甲賀者10名の年齢分布を見てみると、20代が2人、30代が1人、40代が1人、50代が4人、60代が2人となり、活躍しそうな壮年(満31~44歳)忍者は少ない。むしろ青年と中年~老年の者で構成されている。

 これについて、以前「忍びの館」で紹介していた際には、「当時すでに忍術の衰退が著しく、若者でまともに忍術を使える者がほとんどいなかったのではないか、と考えられる」としていた。そうしたところ、2015年の第8回忍者検定における特別講演において講師の方が、「あるサイト」とした上で、「そのサイトの方は、当時きちんと忍術を使える者が少なかったから年取った忍者が多いと解釈されていましたが、親から子へ忍術を伝授するという意味があったと思われます」というような趣旨の発言をされていた。実は私個人としては、これはあったと考えている。実を言うと、サイトで島原の乱を紹介した最初の頃(6年前)は、私も「老年者から若者へ忍術を伝えることを企図した人選」と考え、そう掲載していた。その後とある研究家の方から「まともに忍術を使える人が少なかったからでは」とアドバイスを貰い、書き改めていたという経緯がある。

 ただ、よく考えてみると「老年者から若者へ忍術を伝えることを企図した人選」と「まともに忍術を使える人が少なかったから」というは、ある意味同義と言える。若者で忍術をまともに使える人が少なかったからこそ、老年者から若者へ忍術を伝えることを意図した人選になったと考えられる。

 ちなみに、同姓の者が複数名いるのを見ると、あたかも実戦をもって親から子へと忍術を一子相伝したように見えるが、 実は参加メンバーの中に親子は1ペアもいない。⑤芥川七郎兵衛の父は芥川忠八という人物で、同姓の老年者④芥川清右衛門は父ではない。また③望月与右衛門も、その父は望月与兵衛という名で②望月兵太夫ではない。

 

忍者にとっての島原の乱

 島原の乱は忍者が最後に活躍した戦いである、と言われる。活躍したかどうかは置いておくとしても、潜入や盗聴などある意味「忍者らしい」はたらきをした「戦い」であることは間違いないだろう。ただし、単に甲賀者が参加した「戦い」としては、幕末の甲賀勤皇隊があり、忍者らしいはたらきであれば、数は少ないながら、少なくとも江戸中期頃までは幕府や諸藩において調査活動を担っていたことが分かっている。

 島原の乱にまつわる忍者の話としては、他に細川家の忍者が臆病で使い物にならなかった話が知られる。しかしこれまた出典が分からないので、ご存知の方がいれば是非お教え頂けると助かります。

*1:同書には「十忍者の名も、鵜飼氏の後孫勝山の手記(甲賀古士由緒書)から写しとったのである」とあるが、「鵜飼勝山実記」や「甲賀古士由緒書」などを見ても、年齢までは書かれていない。