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忍術研究史その3

 さて、忍術研究史も最終回になった。第1回第2回に続いて、今回は伊賀郷土史家の久保文武について触れ、それ以後の忍者研究について考えたい。

  

久保文武

 伊賀郷土史の重鎮。國學院大學師範部(3年制)卒。上野市立図書館に勤務し始めたことから郷土史家としての道を歩み始めた。その後上野市で市史編纂係をしていた時、図書館の倉庫の片隅で藤堂藩伊賀奉行石田清兵衛の覚帳『統集懐録』を発見、貴重な文献と判断して原稿用紙に筆写した。後に原書は紛失したため、現在我々が『統集懐録』を参照できるのは、この時久保が筆写していたことによる。久保の功績として最も有名なのは、上嶋家文書の発見かもしれない。楠木正成観阿弥、服部家のつながりを示す上嶋家文書は、大きな反響を以て迎えられ、哲学者・梅原猛氏らをも巻き込んだ大論争となっていく。久保は、伊賀者に関するものとして幾つかの論考を書かいているが、そのクオリティは極めて高い。多岐に渡る史料を使用し、優れた考察がなされており、その慧眼(けいがん)には感服せざるを得ない。これらの論考は修正を経て『伊賀史叢考』(昭和61年)、『伊賀国無足人の研究』(昭和62年)に収められているが、そもそも主に発表した場が伊賀郷土史研究会の会誌(『伊賀郷土史研究』)であったので、昭和後期~平成初期の忍者研究に充分に反映されていなかったのが残念である。私個人的な話をすると、久保氏の論考を初めて読んだのが割りと最近で、もっと早く読んでおけば…と思った次第であった。

  さて、本稿は元々足立・山田・尾崎『忍法』に立脚してきた。『忍法』は、前掲山口正之の『忍者の生活』について、こう評している。

彼は忍術を「伊甲両陽に発達した山岳武術・兵法」だとみるが、しかしA五版二百六十三ページの書物の最後のページまで丹念によんでも、ついに忍術の実体は分からない。ギリギリに煮つめてゆくと、あとは武術か兵法だけがのこることになる。彼が忍術を伊賀・甲賀地方に発達した特殊な山岳武術または兵法と解釈したのも当然だろう。

 これに対し、久保は『伊賀史叢考』所収「家康の伊賀越危難考」まえがきにて、

これは山口氏の「忍者の生活」と題する書名が山口氏の意図と合致しないからであって、山口氏は戦国期に横行した伊賀者、甲賀者を史実的にとらえようとしたからであって、決して忍術論を展開しようとしたものではない。

と反論を加えた上で、これまでの忍術研究や忍術観について、こう述べる。

伊藤銀月氏、藤田西湖氏、奥瀬平七郎氏等は、伊賀者、甲賀者を手段として、「忍術論」を展開しようとしているのであり、さらに尾崎氏は、スケールもより大きく、洋の東西のスパイ史と関連づけて忍術論を展開しようとしている。それはも早、室町末期のかなり躍動的な地方土豪としての甲賀衆、伊賀衆の姿ではない。また、村山知義氏は忍者を、日本史上、一番矛盾が大きく、一番乱れ、一番歪んだ時代に完成された詐欺術……そして食うために忍術を学び苦しい修業で本然の人間性を歪めてきた人の群と考える(中略)が「食うために忍術を学び、苦しい修業で本然の人間性を歪めてきた人間集団」と解釈するのは、あまりに近代資本主義下での物の考え方ではあるまいか。(中略)戦国武将に仕え、時にはAに、時にはBにと、かなり自由な立場で行動したであろう戦国忍者を「喰うために人間性を歪めて修業した徒輩」と解することは、いささか観念論に流れすぎたといえるのではなかろうか。第一に戦国忍者としての伊賀者は上農層である。彼らは忍術的武術を修練するためには、或る程度、農業から解放されていなければならない。(中略)とも角、楯岡道順や音羽の城戸などは土豪であり、「喰うために人間性を歪めて修業した徒輩」ではない。

 この文章はもと「伊賀者史(前編)」という題で『伊賀郷土史研究5』(昭和47年)に掲載されたものである。あえて言うならば、伊藤銀月以降、忍術はいつの時代にも発現する、現代にすら応用可能な処世術、とより広く捉えようとしてきた。この流れを断ち切り、歴史の中に回帰させること。そして卑しい層による権力への反発としての忍者という、主にマスコミ(小説やマンガ)によって60年代に流布されたイメージ*1を覆すことを、企図し、その端緒となったのではないだろうか。久保の論考を踏まえつつ、諸説の出典を明記し、史実を追おうとした努力の伺える忍者研究書、石川正知『忍の里の研究』が出るのは、この10年後の昭和57年のことである。

 

その後の忍者研究と忍者研究家

 本稿では、存命中の人物については書かない方針であったので、今回書くのはここまでである。しかし、簡単にその後の研究家について、在野に限って少し書きたい。「最後の忍者」とも称される甲賀流伴党21代目宗家の川上仁一氏は、伴家忍之伝研修所を運営する傍ら、忍術研究にも熱心に取り組んでおられ、現在は伊賀流忍者博物館名誉顧問、三重大学社会連携特任教授に任命されている。川上氏に師事した1人が、伊賀流忍者集団・黒党の黒井宏光氏である。著書『忍者図鑑』(ブロンズ新社、平成12年)は、平成に入ってからの忍者本の中で、最も広く普及したものかもしれない。同書は子供向けであるが、これまでの忍者研究を簡潔にまとめ上げ、平易な文体で分かりやすく、さらに忍者に夢を抱く子どもへの配慮も十分に為されて書かれている。子供向けということも含めて『忍者図鑑』に並べるのは、『忍者の教科書』(笠間書院、平成26年)だろう。かつて新発見の内容は、『歴史読本』の忍者特集回が発表場所のようになっていたが、『忍者の教科書』シリーズは、それ以後の場としても機能した。執筆は伊賀忍者研究会✕甲賀忍術研究会✕三重大学という形を取っているが、編集は伊賀忍者研究会が単体で行っている。その伊賀忍者研究会は平成11年に設立され、主催は池田裕氏である。甲賀忍術研究会(旧称・甲南忍術研究会)は、顧問的存在だった故・服部勲氏による尾張藩甲賀五人の特定や、その甲賀五人の末裔である渡辺俊経氏が会長だった平成20年に第1回を開催し、以降恒例行事となっている「忍者検定」が特筆されるだろう。なお故・服部勲氏は一般に流通するような著書がなく、その研究成果は広くは知られていないが優れた論考を幾つも残されていることを付言しておきたい。そして平成27年には忍術伝書「万川集海」の完全現代語訳本『完本 万川集海』(国書刊行会)が出版され、その訳者は医学博士で武術家の中島篤巳氏であった。他にも挙げるべき郷土史家・忍者研究家が多くいるが、ひとまずこのあたりにしておきたい。

 

*1:村山知義の「忍びの者」は日本共産党赤旗』に連載していた。また白土三平の「カムイ伝」は連載開始時、第二次安保闘争学生運動が盛んだった。時代や連載紙が、弱者による権力への反発を要求し、それを忍者に託したのである。立川文庫は戦前のものであるが、大東亜戦争=太平洋戦争を経て、忍びの者の印象はスーパーマンから、陰惨なスパイへと変貌したのかもしれない。

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