服部正成の父の謎

 「歴史上の忍者の名前を1つ挙げて欲しい」

 こう問われると、「服部半蔵」の名前を挙げる人も多いだろう。

 ご存知、服部半蔵正成である。彼は徳川家康の家臣で、「徳川十六神将」にも数えられ、”忍者である”とはちょっと言えそうにない存在だ。ところで、この半蔵正成の父親の名前を、ご存知だろうか。

 読者の多くの方が、「服部半蔵保長」と思ったのではないだろうか。1代目半蔵(半三)が保長、2代目が正成、3代目が読みが同じ正就(まさなり)、と一般的に認識されている。これは江戸時代後期に編纂された幕府旗本の家系図集『寛政重修諸家譜』によるもので、この本にそう、書かれている。しかし半蔵正成の子孫は幕府の旗本ではない。3代目正就は伊賀者頭をクビになり、子どもたちは親戚を頼って諸藩に召し抱えられたからである。実は『寛政重修諸家譜』に載る服部半蔵家の家系図は、保長の長男・保俊の子孫が提出した家系図に強く影響されている。

 

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 一般的に考えられている服部家の家系図は、破線部を除いて概ね上図のようになる。家系図によって保長と書かれたり、正種と書かれたりするため、「保長=正種」と考えられている。家系図をよく見てみると、家督を継いだ正成は保長の5男であり、長男ではない。この時代、兄が他家の養子になったり早死したりして、弟が家督を継ぐこと自体は珍しいことではない。しかし服部家の場合、長男・保俊も次男・保正も、ともに服部家の男子として成長し、徳川家の旗本となっているのである。彼らが家督を継いでいないのは、一体なぜだろうか。

 さらに家系図をよく見てみると、半蔵正成の兄らは「保」の字を継いでいるにも関わらず、正成とその弟は「正」の字になっている。そこで、以下のように左右に分け、それらを異なる家筋だと考えると、きわめて自然な形になる。

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 正種と保長は別人であり、正成は正種の長男であると考えるのが、最も違和感が無いのである。実際に服部正就の子孫に伝わる家系図には、正成の父は正種と書かれており(保長と追記するものもある)、正成が葬られている西念寺に残る家系図にも、やはり正種―正成と書かれる。

 ところで服部保長はまたの名を千賀地保長とも言い、伊賀の千賀地谷の出身だと考えられている。一方、正種は平氏・服部平内左衛門の末裔で、服部速水『今治拾遺』によれば、伊賀の荒木村出身だという。これらが事実だとすれば、正種と保長は全くの他家であり、正成の父は保長ではなく正種だということになる。

 では、なぜ服部保長の末裔たちは、江戸後期にこのような家系図を幕府に提出したのだろうか。明確な理由は分からないが、徳川十六神将の1人・服部半蔵正成にあやかりたかったのかもしれない。同じ伊賀出身で服部姓ということもあり、服部半蔵の遠戚と見せかけることは容易だ。家格の見栄えも良くなる。すでに江戸時代の半ばには「保長=正種」と考えられている節があり、伊賀者の由緒書を見ても、保長の子孫と正成を「親戚」と書くものがある。

 一方、最初に述べた『寛政重修諸家譜』の編者は、「別の家系図には正種と書いてあり、同一人物かどうかよく分からない」と実は疑問を抱いていた(同書「服部保長」の項)。さらに言うと、『寛政重修諸家譜』の100年以上前に成立した『寛永諸家系図伝』では、保長の子どもは保俊と保正の2人しか書かれていない。昭和に入って、在野の忍者研究や忍者小説が盛んになり、『寛政重修諸家譜』を見て「1代目半蔵が保長、2代目が正成、3代目が正就」としてしまったため、現在においても、それが通説になっているのだろう。

 

※上嶋家に嫁いだといわれる保長の娘について、『寛政譜』に記述が無く、どこに書くべきか分からない。参考文献に挙げた前川氏の記述に則れば、末子として書くべきであるが、一方で千賀地保長の娘であることから、上図のごとく書き込んだ。

 

参考
辻直樹「伊賀と丹羽の須知氏」(伊賀暮らしの文化探検隊レポート vol.12)

前川友秀「伊賀「忍の衆」を束ねた藤堂采女元則」(伊賀暮らしの文化探検隊レポート vol.14)

なお、本稿は辻氏にご教授頂いたことがきっかけになった。氏は服部家の系図について調査され、上記参考文献でも一節を設けているので、そちらもご覧頂きたい。後者文献は家系図作成において参照させて頂いた。