神君伊賀(甲賀)越え① 概要

概要

 天正10年6月2日早暁、京都・堀川四条の本能寺に宿泊していた織田信長と、烏丸御池妙覚寺にいた織田信忠は、重臣・明智光秀に攻められ、敢えなく自刃した。世に言う本能寺の変である。この時、大坂・堺にいた徳川家康は、軍勢を引き連れていないことから上洛しての光秀討伐を断念、一路、根拠地・岡崎への帰還を目指す。6月2日から4日に渡る家康の逃避行は、一般に「神君伊賀越え」と呼ばれる。

 経路や日数など、今なお謎多く、諸説入り乱れる「神君伊賀越え」(以後、伊賀越えと表記)について、何回かに分けて、私見をはさみつつ解説していきたい。

 

有用な先行研究

 本論に先立って、有用と考えられる先行研究について触れておきたい。

 1つ目は、久保文武「家康の伊賀越危難考」(『伊賀史叢考』、1986年)である。久保氏は著名な伊賀の郷土史家であるが、これまでの『徳川実紀』等による”通説”に対して異を唱えつつ、新たな伊賀越え像を極めて明快に論じている。

 2つ目は、藤田達生「伊賀越え再考」(『愛知県史研究』第九号、2005年)である。藤田氏は中世史の研究者で、三重大学教育学部教授。また『愛知県史』資料編11織豊1「特集 本能寺の変徳川家康」には、藤田氏によって伊賀越えに関する比較的信憑性の高い史料が紹介されており、平成における伊賀越え研究には欠かせない本となっている。

 その他の論考も適宜参考にした。論考および、使用した史料については、最後の参考文献に列記し、簡単な説明文も挿入した。

 

 

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