神君伊賀(甲賀)越え⑤ 歪曲された情報の流布

 伊賀越えにはルートや日数などにおいて、様々な説が混在し、我々はそれに混乱してしまった。なぜ、これほどまでに多くの異説が存在するのだろうか。これについて久保文武氏は「家康の伊賀越危難考」の中に「雑書の混乱」という章を設け詳細に検討を加えている。以下は、久保氏の論文をもとに述べていきたい。

 

Ⅰ-a. 大和・十市氏の由緒書
 大和国南部の土豪十市遠光が家康の大和通過を護衛したとする由緒書。南河内から竹内峠を経て奈良県に入り、そのまま伊勢を目指そうと東進。長尾村(葛城市)で反対勢力の万財太郎の説得に成功するも、石原(橿原市)の石原源太の一揆勢に遮られて経路変更。少し南の芋ヶ峠を経て高見峠越え(奈良県吉野郡→三重県松阪市)をしようとするが、伊勢国の騒動で再度経路変更。結局田口村(宇陀市田口)から「伊賀」の琴弾村(宇陀市室生)を経由して、わざわざ滋賀県を回って、伊勢へ出たとする。

 地図上で追うだけでも混乱しそうなルートだが、さらに琴弾村は伊賀国ではなく大和国であり、地名や人名がずさんであることが指摘されている。久保氏が引用している広吉寿彦氏はその論文「本能寺の変徳川家康-いわゆる伊賀越についての異説」( 大和文化論叢, 1967)で、この大和経由説を「「妄説」」と断じている。

 

Ⅰ-b. 近江・山岡氏の由緒書
 近江瀬田の山岡市の由緒書でも同様の混乱が見られる。『譜牒余録』山岡景隆によると、家康隊の先頭に立ち、山岡景隆・景佐兄弟で一揆勢を退け、瀬田~信楽~御斎峠までお供したという。

 実際山岡氏は、明智光秀が協力を求めて遣わした使者を殺害し、さらに瀬田橋を焼き落とした(「当代記」)。山岡氏が家康に協力した可能性は十分考えられる。後述するが、本隊のカモフラージュとしての御斎峠越えを担ったのが、山岡氏なのではないか。いずれにせよ、『徳川実紀』にも書かれる「御斎峠説」は、地元伊賀でもよく信じられていたが、これは山岡家系の由緒書の記述が原因だったのである。

 

Ⅱ. 2つの由緒書の影響

 『神祖泉堺記事』は、十市氏と山岡氏の両方の由緒書を取り入れようとしており、甚だしく混乱している。そのルートは、宇治田原から北進して、滋賀県の上曽束(大津市)まで行く。すると今度は南下し始め、當麻(奈良県葛城市)へ行き十市氏の館に一泊。翌日は何故か逆走して宇治田原の高尾(こおの)の服部貞信宅に一泊。 その後宇治川を渡り、瀬田の石山寺大津市瀬田)で山岡景隆・景佐に迎えられ、信楽→「波多野」→「高見峠」→御斎峠→柘植へと向かう。波多野、高見峠は十市氏の由緒書に出てくる地名であり、信楽~柘植間には存在しない。このように全くデタラメな経路となってしまっている。

 すなわち、「前には十市玄蕃の由緒書を生かさんため、家康一行をして大和遍歴せしめ、今はまた、山岡由緒書を生かさんため、近江の石山、瀬田まで遍歴させ、在りようのない波多野、高見峠などを作為しているのである」(久保氏前掲論文)。

 このように混乱を極めた記録類を、更に引用した文書が出現する。その1つが『伊賀者大由緒記』だ。「大和路」という単語や、「江州高見峠を経て伊賀の上柘植…」という記述、さらに穴山梅雪が大和で殺されたとするなど、誤謬で溢れかえっている。伊賀者以外の由緒書を見ても、大和路や御斎峠に触れられているものがあり、後世に作られた由緒書や『徳川実紀』『神祖泉堺記事』のような歴史書に、大きな影響を与えてしまったと言えるだろう。

 

Ⅲ. 由緒書の示す経路は、影武者の経路か
 現在存在する様々な異説は、十市氏と山岡氏の2家の由緒書が根本的な原因となっていることが分かった。では、なぜこのような由緒書が作られたのであろうか。

 ここで久保氏は、大胆な説を立てる。十市氏と山岡氏は家康の影武者としてそれぞれ大和路、御斎峠を通った、あるいは家康が通るという偽の情報を流したのではないか、という説だ。

 寛永年間に成立した『当代記』には、「家康大和路へかかり、高田の城へ寄られ、城主へ刀ならびに金二千両下され、其の日に相立たれ、六月四日三川国大浜へ舟にて下着し給う」とあり、家康の大和路経由が流言されていた可能性が指摘される。

 他に、御斎峠近くにあった十王地蔵のうち1体は、家康伊賀越えの際に身代わりとして駕籠に乗せ、御斎峠越えをしたという伝説がある。そのためか、峠近くの浄顕寺に伝わる十王地蔵は9体しかない。

 十市氏と山岡氏は実際に家康を警護した訳ではない。しかし、家康の危険回避について一役買っていたのではないだろうか。その功績を訴えたいがために、有り得ない逃避経路を世に流布させてしまったのだという説は、十分有り得ると考えられる。

 

Ⅳ. この節の最後に

 興味ある方は、ぜひ久保氏の前掲論文を読んで頂きたい。論文調ではあるが、時代小説を読んでいるかのように読み易く、しかし確たる論拠と鋭い考察を併せ持つような論考である。