天正伊賀の乱 その3(第一次天正伊賀の乱)

いよいよ、織田信雄が攻め込む「第一次天正伊賀の乱」が始まります。ちなみに前回はこちら。

信雄侵攻開始

 まずは「伊乱記」「伊陽旧考」に沿って、天正伊賀の乱をみていくことにしましょう。

 敗走してきた滝川雄利から報告を受けた信雄は大いに怒り、天正7年9月16日、伊勢松ヶ島を発し、伊賀への侵攻を始めます。信雄は軍勢を「阿波口」(現在の伊賀街道、長野峠越え)、「鬼瘤峠越え」(伊賀市奥馬野付近)、「伊勢地口」(現在の368号線)の3箇所に分け、自身は阿波口から攻め入りました。

阿波口の戦い

 9月17日早朝、信雄本隊は長野峠の国境を越えて伊賀国への侵攻を始めます。迎え撃つ伊賀衆は、切所(山間の通行困難なところ)に要害を構え、進行して来た信雄軍に対して、弓鉄砲を打って攻撃を仕掛けました。次第に槍や刀による戦闘もおこなわれるなか、夕方近くになって日が傾き、あたりが山の陰に包まれました。すると伊賀衆は、この時を待っていたとばかりに鬨の声を上げます。

 敵と組み合っていた伊賀衆たちは一斉に動き、散開したのち谷の上から攻め立てたところ、信雄軍は難所に落とされ混乱し、同士討ちする者数知れず、信雄自身も命からがら山路を辿って深夜長野の宿(現在の津市と伊賀市の境界あたり)まで引き退きました。

鬼瘤峠越えの戦い

 一方、9月16日の午後2時頃に鬼瘤峠の国境を越えたのは、柘植三郎左衛門と日置大膳亮の軍です。忍者として著名な「百地丹波」を始めとする伊賀衆によって、これまた足元の不安定な山間で、反撃を喰らうことになります。

 攻めあぐねている間に日はとっぷりと暮れて夜になり、通り雨が降るなど、天候は芳しくありません。せっかくの満月も雲に隠れ、あたりは闇に包まれていました。すると伊賀衆、勇み進んで声を上げ、伊勢武者を討ち取れ、大将を生け捕りにせよと叫びながら、織田軍に弓鉄砲を浴びせて攻撃を始めました。織田軍は驚いて、道を見失って谷に落とされたりするなど、多くの者が討死していました。軍を率いていた柘植三郎左衛門も自ら槍で突撃しましたが、暗い中での戦いでは分が悪く、遂に討死してしまいました。日置大膳亮は命からがら松ヶ島へと戻りました。伊賀衆は歓びの鬨の声を上げ、太鼓を打って貝を吹き、明け方頃には戦いも終結して、各々引き上げて行きました。

伊勢地口の戦い

 「伊勢地口」の軍勢は、一足遅れて出立します。9月17日の夜に松ヶ島を出発し、翌18日に交戦に入り、激戦の末、織田軍を率いていた長野左京太夫と秋山右近太夫は両者とも討死しました。残った兵は伊勢へと敗走することになります。

 

第一次天正伊賀の乱の実情

 一般に、織田信雄が手柄を立てようと、伊賀に攻め込んだように捉えられることがほとんどです。兄・信忠ほど活躍できていなかったことで、焦りがあったと描かれることもあります。しかしながら、あらためて信長公記を見てみると、そこには下記のように書かれています。

9月17日、信雄卿は伊賀国へ進軍して一戦に及び、家臣の柘植三郎左衛門は討死した。22日、山崎にいた信長公から、上方への出陣もしないで私戦をしていることを嗜める手紙が送られた。その文面は、

「この度伊賀国境にて敗北したことは、実に許されないことだ。その実は、上方へ出兵すると兵や百姓が難儀するので、自国内で戦争をしてしまえば、他国への遠征を免れるので(家臣から何かしらの理由を付けて伊賀侵攻を説かれ)、若さゆえに「尤もだ」と考えて行動したのだろう。無念至極である。出兵は、第一に天下のため、そして父(信長)のため、兄・信忠のため、そして信雄本人のための働きでなければならないのである。さらに柘植三郎左衛門をはじめ多くの討死を出してしまったことは言語道断である。(信雄の)考え次第では、親子の縁を切らなければならない。」

 信長の相次ぐ戦争に、信雄家臣たちが毎度遠征させられるのが嫌になって、近場で自分たちから戦争を起こしてしまった(戦争していれば、遠くに派遣させられることは無い)、という事情が書かれています。繰り返しになりますが「伊乱記」「伊陽旧考」は江戸時代にあってから書かれたもので、すべてを鵜呑みにすることはできません。第一次天正伊賀の乱は、信雄の独断専攻というイメージが強いですが、その実態は家臣たちに乗せられて戦いに踏み切ってしまった、信雄の統率力の不足にあるのかもしれません。(つづく)