戸田本三河記は「甲賀越」ではない

甲賀越」と記した唯一の史料

 今なお議論紛糾の神君伊賀越え。このブログでも全8回(2024年2月現在)をつかって解説してきました。

 何が議論になるのかというと、家康が通ったルートです。大まかに言うと、①信楽から桜峠を越えた説、②信楽から甲賀を回った説、③奈良から伊賀に入った説が、それぞれ力強く主張されてきました。

 このうち②甲賀を回った説について、江戸初期までに成立した記録のなかで、唯一「甲賀越」と記すものがあります。それが『戸田本三河記』です。

 神君伊賀越えについて調べるとき、最初に参照される『大日本史料』11編1には、多くの関係史料の翻刻が掲載されています。その中の『戸田本三河記』の箇所を見ると、確かに「甲賀越」と書かれています。

大日本史料11編の1『戸田本三河記』 後ろから5行目に「甲賀越」とある

翻刻の底本、そしてその写し元へ…

 では、なぜ本書は、唯一「甲賀越」と記す史料となったのでしょうか。

 そこで、この翻刻の底本と思われる、国立公文書館所蔵の戸田本『三川記』(実は河ではなく川が正しい)を見てみます。ちなみに「戸田本」と呼ばれる理由について、平野仁也『江戸幕府の歴史編纂事業と創業史』(清文堂、2020年)によれば、戸田肥後守(氏西)(1627~1684)による献上本の写しによるためなのだそうです。他の『三川記』もあるので、区別するために、架蔵した幕府紅葉山文庫によって名付けられたのでしょう。

戸田本三川記(国立公文書館所蔵) 付箋に「戸田本」と書かれている

 さっそく伊賀越えについて触れている箇所を探して、そのページを開いたものがこちらの画像です。

『戸田本三川記』中(国立公文書館所蔵)83コマ目 2行目に「甲(賀)越」とある

 それは2行目にありました。ただよく見ると、「甲越」と書かれたうえで、「甲」と「越」の間に朱字で「賀」とあります。この「賀」が朱筆で追記された字であることは、『大日本史料』の翻刻を見る限りでは全く知る由もありませんでした。

 実際には、当初は「甲越」と書かれていたところに、この朱字が書き込まれたわけですが、いつ、誰によるものなのかは分かりません。ここで最も重要なのは、この朱字が正しいのかどうか、ということです。

 

甲賀越」なのか「甲越」なのか

 その疑問は、まとめると次のようになります。

①正しい記述にするため朱字を入れた=「甲賀越」が正しい
②勘違いして朱字を入れてしまった=「甲越」が正しい

 この答えを知るためには、戸田本『三川記』が、何をもとにして書かれたのか、その写し元を見る必要があります。

 何をもとに戸田本『三川記』は成立したのか。それは近年発表された研究によって明らかにされていました。2023年4月の『京都大学國文學論叢』48に掲載された大山恵利奈「「三河記」作品群――諸本の分類について」では、戸田本『三川記』と堀正意編『三川記』という史料の比較をおこなったうえで、項目の一致や脱文の存在などから、戸田本『三川記』は堀正意編『三川記』を写すことで成立した、としているのです(詳細はリンク先の論文をご覧ください)。

 ちなみに、この堀正意編『三川記』とは、前掲の平野仁也『江戸幕府の歴史編纂事業と創業史』によれば、寛永年間に尾張徳川初代の徳川義直の命によって編纂され、寛永15~16年(1638~39)頃に大方出来上がったものだそうです。

 ということは、「甲賀越」なのか「甲越」なのかは、この堀正意編『三川記』を見れば、ハッキリと分かることになります。その画像がこちらです。

堀正意編『三川記』2(巻6)(東大史料編纂所所蔵)671コマ 2行目に注目

 なんと、そこに書いてあったのは「甲越」で、しかもご丁寧に「カフトコヘ」とルビまで振ってありました! つまり、『大日本史料』で「甲賀越」と書かれていたのは、正しくは「甲越(かぶとごえ=加太越え)」だったのです。

 

家康は甲賀を通らなかったのか

 以上のことから、「『戸田本三河記』にはちゃんと「甲賀越」と書かれているんです」という言説は、誤りといえます。ただ、これは即座に甲賀越えの可能性がゼロになることを意味しません。すでに過去のブログ記事で述べた通り、甲賀には、数少ない伊賀越えに関する(と見られる)一次史料が残っています。これらの史料が何を意味しているのか、それらの整合性が整理されなければ、やはり断定的な結論を導き出すことはできないでしょう。