神君伊賀(甲賀)越え⑦ 参考文献・史料目録

同時代史料(=1次史料)

「山中文書」(徳川家康書状写)(1582.6.4)
「和田家文書」(家康起請文写)(1582.6.12)
 『家忠日記』(1577~1594、松平家忠)※家忠は三河・大浜に到着した家康一行を迎えに行っている。


江戸初期成立文書

『石川忠総留書』…成立年不詳、著者は石川忠総(1582-1651)、乾坤2冊。本書によると、実父・大久保忠隣、養父・石川康通ともに伊賀越え随行者であるが、忠総本人は天正10年に生まれたことを考慮する必要がある。
『慶長見聞記』…『慶長見聞集』(1615、三浦浄心)とは異なるが、同時代に成立した見聞録と考えられる。著者不詳。
三河物語』(1622、大久保忠教大久保忠教(1560-1639)は当時23歳だった。
『戸田本三河記』…三河物語の系譜を引く書と考えられるが、内容に差異が少なくない。
『当代記』…寛永年間(1624~1643)に成立、著者不詳、松平忠明との説がある。天文~元和元年の記事で構成される。
天正日記』…内藤清成著と伝わるが、他書との矛盾や、言い回しから後世に作られた偽書との指摘がある。
「新重左衛門尉末次提出文書」(1650)…山口城主・山口甚介配下の新末景の子・末次が、京都所司代から命じられ、親より聞いた内容を提出した。内容が極めてリアルで、史実に近いのではないかと考えられる。
『石川正西見聞集』…松井松平(当時は石見浜田藩)藩主・松平康映の命で、家臣石川正西によって書かれた。1660年成立。
『武功雑記』(1696、松浦鎮信)…諸士諸将の武功を集成したもの。
『譜牒余録』(1799)…『貞享書上』(1684、諸家の古文書・家伝の集成。『寛政重修諸家譜』の基礎資料の1つ)を検索しやすく再編集したもの。成立は1799年だが、内容は1680年代のものである。あくまで家伝なので、信憑性には、その記事によりばらつきがある。

 

 論文・書籍

久保文武『伊賀史叢考』「家康の伊賀越危難考」(私家版, 1986年)
藤田達生「伊賀越え再考」(『愛知県史研究』第9号, 愛知県, 2005年)
渡辺俊経「「甲賀忍者論」入門」(『地域の歴史』Ⅳ, 甲南地域史研究会, 2015年)
前川友秀「死守できるか?運命の天正伊賀乱!」(『伊賀暮らしの文化探検隊レポート』vol.12, 2012年)
『愛知県史』資料編11織豊1「特集 本能寺の変徳川家康」(愛知県, 2003年)
大日本史料』11編の1(東京大学史料編纂所, 東京大学出版会, 1988年)
『宇治田原町史』第1巻(宇治田原町, 1980年)
鈴鹿市史』第2巻(鈴鹿市, 1983年)

 

江戸後期成立文書

徳川実紀』(1849、成島司直) /『神祖泉堺記事』(1750頃、柏崎永以)/他に、各家・集団の由緒書。特に『伊賀者由緒記』を始めとする伊賀者の由緒書、『角屋七郎次郎由緒』、『茶屋由緒記』

 

史料目録

『愛知県史資料編11 織豊1』本能寺の変徳川家康
家康書状写(山中文書) 家康起請文写(和田家文書) 多聞院日記 天正日記 当代記 老人雑話坤 石川忠総留書乾 石川忠総留書坤 石川正西聞見集 三河物語(下) 信長記(第15) 戸田本三河記  寛永諸家系図伝酒井忠次、高力清長、本多忠勝) 譜牒余録(紀伊殿、本多中務大輔の1、本多下野守、永井万之丞、永井日向守、小普請の3・天野三郎兵衛康景由来書、処士の上)  寛政重修諸家譜(酒井重忠、榊原康政、永井重元、本多忠勝井伊直政) 茶屋由緒書 本多家武功聞書

大日本史料11編の1』

天正日記 家忠日記 当代記 三河物語 石川忠総留書乾 石川忠総留書坤 永日記 譜牒余録(永井万之丞) 原本信長記坤 川角太閤記 寛永伝(酒井忠次本多忠勝)  寛政譜(本多忠勝榊原康政井伊直政) 井伊家譜 寛政譜(高力清長、酒井重忠、永井重元) 茶屋由緒書 呉服師由緒書(註・呉服師亀屋源太郎の由緒書)  寛永伝(山口光広) 譜牒余録(山口藤左衛門) 寛政譜(山口光広) 寛永伝(多羅尾光俊、和田定教) 古文書(和田・記録御用所本掲載・和田家文書)  譜牒余録(山岡瀬兵衛) 寛政譜(上林久茂) 伊賀者由緒并御陣御供書付 伊賀者由緒書 譜牒余録(柘植三之丞) 寛政譜(服部正成、服部保次、伴盛兼) 角屋由緒 日本耶蘇会年報 続本朝通鑑  木俣土佐紀年自記 本多家武功聞書 姫陽秘鑑(4,32) 武辺雑談 老人雑話 御年譜微考 御庫本三河記 戸田本三河記 神祖泉堺記事 武徳編年集成 林鐘談 蓑笠之助伝  寛政譜(蓑) 伊賀国誌 勢陽五鈴遺響 (以下、穴山梅雪関係)花押語彙(穴山梅雪) 印章彙纂(穴山梅雪) 穴山梅雪書像賛 仏眼禅師語録 諸系図(武田) 諸家系図纂(武田) 甲斐国志 南松院文書  仏眼禅師語録(文類、供養の部、銘類) 甲陽軍鑑 老人雑話 雍州府志 家忠日記 水野家譜 明良洪範 鳥居家中興譜

神君伊賀(甲賀)越え⑥ 考察

伊賀越えの背景「天正伊賀の乱」 の、さらに背景

 名張市を中心とする南伊賀では、毎年お盆に「本能寺の変」で織田信長を打倒した明智光秀を讃える「お蔭祭り」が催される。家康の伊賀越えを考えるには、同盟者・織田信長による「天正伊賀の乱」を無視できない。そして、その伊賀乱の背景にあった伊賀国の事情を考えることが、伊賀越えを考えるためには必要不可欠なのだ。

 伊賀の自治組織である「 伊賀惣国一揆」は北伊賀の土豪が中心である。しかしながら「第一次天正伊賀の乱」で丸山城を攻撃したのは南伊賀の土豪たちであった。これはなぜか。

 もともと惣国一揆は一枚岩ではなく、かつて六角承禎の傘下にあった北伊賀と、伊勢国北畠家の傘下にあった南伊賀の間にひずみがあったことが以前より指摘されてきた。郷土史家・前川友秀氏による「死守できるか?運命の天正伊賀乱!」(『伊賀暮らしの文化探検隊レポート』vol.12, 2012)をもとに説明すると、天正2年織田に攻められた六角氏が滅亡。翌天正3年、かねてより北畠家の養嗣子となっていた信長の三男・信雄は家督を相続すると、義父の具教をはじめ北畠一族を謀殺。これを受け、興福寺にいた具親が還俗し、本陣を名張に構えて信雄に対抗した。具親は北畠旧臣を集めて蜂起を企て、南伊賀衆もこれに応じる。しかし信雄に撃滅され、南伊賀衆は信雄傘下に組み込まれてしまうのだった。その後、伊賀評定衆は信長と関係の深い守護・仁木義視を追放し、対信長路線を選択するものの、実のところ南北には温度差があり、それは、やや信雄寄りの北伊賀と、旧北畠家寄りの南伊賀というものだった。 さらに言えば、北伊賀の柘植氏や日置氏は信雄配下として伊賀侵攻に参加しているのである。


おとりの「御斎峠越え」、予備の「甲賀越え」、そして本命の「桜峠越え」

 上記から、家康にとって桜峠~丸柱~柘植という伊賀国の北辺をなぞる経路は、それほどまで危険ではなかったのではないか。丸柱から家康を案内したのは、その地域に住んでいた宮田氏だという(「統集懐録」など)。後に江戸で働く伊賀者たちの抵抗によって、伊賀者頭を勤めていた服部正就が罷免される事件が起こるが、そのとき「宮田権右衛門」という者が代表者として切腹を命じられている。こうしたことから、宮田氏が何かの功績を残し、その結果、後の幕府「伊賀者」の中でリーダー的存在になったことは十分考えられる。そしてその「何かの功績」こそ、丸柱~柘植間における、家康一行の道案内だったのではないか。

 前章「歪曲された情報の流布」で触れたように、かつて通説として存在した「御斎峠説」は、おとりのルートであったことが指摘されており、ここでもそれを支持したいと思う。一方、近年注目される「甲賀越え」ルートは、保険のルートとして存在したのではないか。和田家文書などを踏まえれば、実際に検討されたルートであることが、容易に想像できる。近江から伊勢へ抜ける、最も安全なルートであることに異論は無いだろう。こうしたルートの選定は、2日目の夜、信楽・小川城でなされたと考えられる。想像力をたくましくするならば、小川城に参集した和田氏や、城主の多羅尾氏など甲賀の有力者を中心に、家康逃避行のルートの検討がなされたと考えられる。


必ず人質を出して

 家康の逃避行全体として言えるのは、家康の案内を務めた(後の由緒書に御供と書かれる)者たちは、総じて人質を出しているということだ。そこにあるのは、家康の前に参上して忠義を尽くすという姿ではない。土地の庄屋であっても、甲賀・伊賀の地侍であっても、家康の要求に応じ、人質を出した上で、案内を務めたのである。

今度質物早速出され候段、祝着の事(和田家文書)

信長生害の時、伊賀をお通りなされ候時、人質を出し、送り申し候(「慶長見聞記」)

城州草地(草内)と申す所の庄屋の子を人質にお取り、案内者になされ候(「本多家武功聞書」)

 「慶長見聞記」には、文脈上宮田権右衛門と思しき人物が人質を出して案内したと書かれる。これは、案内する人間が少人数であれば有効だが、数百人にも上るような大人数では、あまり有効な手立てではない。こうしたことを踏まえると、伊賀者が200人とか、そういった規模で家康の護衛を務めたというのは、少し考えにくいといえる。

 

「伊賀越え」後の伊賀者

 後年、幕府に召し抱えられた伊賀者が作成した由緒書等によると、伊賀者たちは伊賀~白子間において家康の伊賀越えお供を果たした後、6月14日に尾張・鳴海(名古屋市緑区)に向かう。これは家康が明智光秀征討のために岡崎を出発し(13日)、鳴海に到着した(14日)のに合わせている。翌15日には家康に謁見し、その場で召し抱えられたという。ところで中国地方にいた羽柴秀吉は、世に言う「中国大返し」で急遽京都に向かい、13日には山崎合戦が勃発。敗色濃くなった光秀は戦場を脱するも、翌14日早朝、伏見の土民に殺害されたといわれる。果たして伊賀者は、本当に14日に鳴海に来て、15日に召し抱えられたのだろうか。伊賀者召し抱えについては、江戸時代にはすでに諸説混交しており、実態が分からない。関係者たち伝える由緒書の異同については、拙著にまとめてあるので、興味ある方はご覧頂きたい。ところで久保氏の論考でよく引用される「慶長見聞記」には、このようにある。

その後天下ご安治の時分、その時ご案内申し候宮田権右衛門、米地半介などと申す者、少々召しだされ候間、残る伊賀衆も参り、ご奉公望み申し候間、お取り立てなさるべく候へども、鹿伏兎まで送り申さずまかり帰り候間、さほど忠節に思し召さず候

実際には同年秋の「天正壬午の乱」に伊賀者が徳川軍として参加していることを踏まえれば、「天下ご安治の時分」になってからノコノコ出てきた訳ではないだろう。しかし家康の道案内を務めた宮田・米地が召し抱えられるのを見て、それから残る伊賀者たちが追々集まってきたというのは、真実を捉えているように思われる。


「神君伊賀越え」とは何だったのか

 家康の逃避行は、混沌としていた。そのために早い段階で諸説生じ、沿道の地侍・商人・村落にとって、由緒や功績を語る良い題材になった。その後、それらは家康と自分たちを繋げる貴重なエピソードとして、江戸時代を通じて地域や家で語り継がれてきた。その地域における東照権現(=家康)信仰を強力にした効果もあっただろう。「神君伊賀越え」は、結果的に徳川家250年の安泰の一助となっていたのかもしれない。

神君伊賀(甲賀)越え⑤ 歪曲された情報の流布

 伊賀越えにはルートや日数などにおいて、様々な説が混在し、我々はそれに混乱してしまった。なぜ、これほどまでに多くの異説が存在するのだろうか。これについて久保文武氏は「家康の伊賀越危難考」の中に「雑書の混乱」という章を設け詳細に検討を加えている。以下は、久保氏の論文をもとに述べていきたい。

 

Ⅰ-a. 大和・十市氏の由緒書
 大和国南部の土豪十市遠光が家康の大和通過を護衛したとする由緒書。南河内から竹内峠を経て奈良県に入り、そのまま伊勢を目指そうと東進。長尾村(葛城市)で反対勢力の万財太郎の説得に成功するも、石原(橿原市)の石原源太の一揆勢に遮られて経路変更。少し南の芋ヶ峠を経て高見峠越え(奈良県吉野郡→三重県松阪市)をしようとするが、伊勢国の騒動で再度経路変更。結局田口村(宇陀市田口)から「伊賀」の琴弾村(宇陀市室生)を経由して、わざわざ滋賀県を回って、伊勢へ出たとする。

 地図上で追うだけでも混乱しそうなルートだが、さらに琴弾村は伊賀国ではなく大和国であり、地名や人名がずさんであることが指摘されている。久保氏が引用している広吉寿彦氏はその論文「本能寺の変徳川家康-いわゆる伊賀越についての異説」( 大和文化論叢, 1967)で、この大和経由説を「「妄説」」と断じている。

 

Ⅰ-b. 近江・山岡氏の由緒書
 近江瀬田の山岡市の由緒書でも同様の混乱が見られる。『譜牒余録』山岡景隆によると、家康隊の先頭に立ち、山岡景隆・景佐兄弟で一揆勢を退け、瀬田~信楽~御斎峠までお供したという。

 実際山岡氏は、明智光秀が協力を求めて遣わした使者を殺害し、さらに瀬田橋を焼き落とした(「当代記」)。山岡氏が家康に協力した可能性は十分考えられる。後述するが、本隊のカモフラージュとしての御斎峠越えを担ったのが、山岡氏なのではないか。いずれにせよ、『徳川実紀』にも書かれる「御斎峠説」は、地元伊賀でもよく信じられていたが、これは山岡家系の由緒書の記述が原因だったのである。

 

Ⅱ. 2つの由緒書の影響

 『神祖泉堺記事』は、十市氏と山岡氏の両方の由緒書を取り入れようとしており、甚だしく混乱している。そのルートは、宇治田原から北進して、滋賀県の上曽束(大津市)まで行く。すると今度は南下し始め、當麻(奈良県葛城市)へ行き十市氏の館に一泊。翌日は何故か逆走して宇治田原の高尾(こおの)の服部貞信宅に一泊。 その後宇治川を渡り、瀬田の石山寺大津市瀬田)で山岡景隆・景佐に迎えられ、信楽→「波多野」→「高見峠」→御斎峠→柘植へと向かう。波多野、高見峠は十市氏の由緒書に出てくる地名であり、信楽~柘植間には存在しない。このように全くデタラメな経路となってしまっている。

 すなわち、「前には十市玄蕃の由緒書を生かさんため、家康一行をして大和遍歴せしめ、今はまた、山岡由緒書を生かさんため、近江の石山、瀬田まで遍歴させ、在りようのない波多野、高見峠などを作為しているのである」(久保氏前掲論文)。

 このように混乱を極めた記録類を、更に引用した文書が出現する。その1つが『伊賀者大由緒記』だ。「大和路」という単語や、「江州高見峠を経て伊賀の上柘植…」という記述、さらに穴山梅雪が大和で殺されたとするなど、誤謬で溢れかえっている。伊賀者以外の由緒書を見ても、大和路や御斎峠に触れられているものがあり、後世に作られた由緒書や『徳川実紀』『神祖泉堺記事』のような歴史書に、大きな影響を与えてしまったと言えるだろう。

 

Ⅲ. 由緒書の示す経路は、影武者の経路か
 現在存在する様々な異説は、十市氏と山岡氏の2家の由緒書が根本的な原因となっていることが分かった。では、なぜこのような由緒書が作られたのであろうか。

 ここで久保氏は、大胆な説を立てる。十市氏と山岡氏は家康の影武者としてそれぞれ大和路、御斎峠を通った、あるいは家康が通るという偽の情報を流したのではないか、という説だ。

 寛永年間に成立した『当代記』には、「家康大和路へかかり、高田の城へ寄られ、城主へ刀ならびに金二千両下され、其の日に相立たれ、六月四日三川国大浜へ舟にて下着し給う」とあり、家康の大和路経由が流言されていた可能性が指摘される。

 他に、御斎峠近くにあった十王地蔵のうち1体は、家康伊賀越えの際に身代わりとして駕籠に乗せ、御斎峠越えをしたという伝説がある。そのためか、峠近くの浄顕寺に伝わる十王地蔵は9体しかない。

 十市氏と山岡氏は実際に家康を警護した訳ではない。しかし、家康の危険回避については一役買っていたのではないだろうか。その功績を訴えたいがために、有り得ない逃避経路を世に流布させてしまったのだという説は、十分有り得ると考えられる。

 

Ⅳ. この節の最後に

 興味ある方は、ぜひ久保氏の前掲論文を読んで頂きたい。論文調ではあるが、時代小説を読んでいるかのように読み易く、でも確たる論拠と鋭い考察を併せ持つような論考である。

 

神君伊賀(甲賀)越え④ 3日目その2(柘植~岡崎)

柘植(伊賀市

 ここから米地九左衛門半助、柘植三之丞らが案内する。柘植と鹿伏兎は不仲のため、柘植は引き返すが、米地は故あって見知られていないため、引き続き案内した(「寛政重修諸家譜」柘植三之丞)というが、どうであろうか。
 「慶長見聞記」(「慶長見聞集」とは異なる)には、他の伊賀衆にも鹿伏兎までの案内を要請したが、聞かずに帰ってしまったという。 家康の案内をした伊賀者は、実際にはかなり少数であった可能性が高い。恐らくお供に参った伊賀者のほとんどは柘植氏の親類であり、柘植~鹿伏兎のJR関西線1駅分を案内しただけだろう。伊賀越えでは服部半蔵の功績が語られることが多いが、これは後に伊賀者が服部半蔵配下として召し抱えられたことに由来するものであり、三河生まれの服部半蔵正成が実際に伊賀越えで役割を果たしたとは考えにくい。むしろ伊賀での功績は柘植一族にあるだろう。
 柘植の徳永寺には、家康が立ち寄って休憩したという寺伝がある。そのときの由緒で、葵の御紋の使用を許され、今もなお堂の瓦に葵の御紋が光る。また江戸時代を通して藤堂藩より土地が寄進され、別格の待遇を受けていた。

加太(亀山市
 柘植から案内をした柘植三之丞と米地半助はここで帰ったと思われる。ちなみにこの両者は後に旗本になっている。
 当地の鹿伏兎衆は、案内の要請に応えず、「色めきだっていた(ざわついていた)」という(「譜牒余録」永井万之丞)。しかし「石川忠総留書」によれば、野呂という者が家康にお供し、関(亀山市)まで案内した。

稲生(鈴鹿市
 関、亀山を経た家康一行は、一説には稲生(鈴鹿市)に至った。ここ稲生には「落馬地蔵」という地蔵が祀られている。言い伝えでは、家康は逃避行中にここで落馬したところ地元の青年に助けられたという。家康没後、土地の人によって落馬した地点に地蔵が祀られたが、現在は近くの福楽寺に祀られている。また家康一行は乗ってきた馬をここで放ったという。船に載せられないからである。稲生は白子に東接した地区で、港は目前であった。

 

白子(鈴鹿市
 家康一行は船で伊勢湾を横断し三河を目指す。一行がどこから船に乗ったのかは、はっきりしない。「石川忠総留書 乾」を見ると、すでに江戸前期の時点で、四日市か白子か分からなくなっている。よって、ここでは断定せず、それぞれの乗船場の説について紹介したい。なお、伊勢湾に沿って南から白子、長太(なご)、四日市の順に存在する。

①白子(鈴鹿市…多くの由緒書において、家康は伊勢の白子に至ったと書かれる。由緒書だけでは心もとないが、「御庫本 三河記」にも”白子”と書かれ、また最短で伊勢湾に出られるルートでもあるので、合理性もある。
 一説には、家康は白子の商人角屋(かどや)の船に乗ったらしい(「徳川実紀」)。角屋は古くからの廻船業者で、天正3年の対武田勝頼戦において、すでに家康に協力している。角屋は船中で鰹のたたきを献じ、刀と時服を拝領したという。この後、角屋は家康から領国内の航行自由の朱印状(大坂の陣後は、全国航行の朱印状)を与えられたと伝わる。

②長太(なご)(鈴鹿市…「石川忠総留書 坤」で採用されている説である。同書によれば、四日市に行き、ここで水谷九左衛門光勝から食事を献上され、その後「那古」から船に乗ったという。久保文武氏はその論考で、家康が乗船したのは長太浦と比定した。長太は四日市と白子の間にあり、これが後世の文書の混乱を生じさせた原因ではないかと指摘している。

四日市…「戸田本 三河記」には四日市と書かれる。ところで『鈴鹿市史』によれば、当時の四日市港は奈古浦と呼ばれていたという。つまり②長太の根拠となっている「那古」は、現在の長太ではなく、四日市である可能性が考えられる。

 他にも、長太の服部平太夫が船を出し、論功行賞の証拠に金扇を裂いてその片割れを頂戴したとか(「高野家家譜」)、白子近くの絵島の小川孫三が、単身逃げ延びてきた家康を助けて船を出したとか(「小川家由緒書」)、家康家臣の酒井重忠は当時三河にいたが、家康逃避行を聞いて白子に駆けつけ船を提供したとか(「寛政重修諸家譜」酒井重忠)、諸説混乱している。私見を述べると、最短距離でもあり、その後の由緒書でも多く引用される「白子」が、やはり最も有力ではないだろうか。

 

大浜(愛知県碧南市
 伊勢国を船で出発した家康一行は、三河国で下船する。到着地は常滑(愛知県常滑市)とも、大野(常滑市の北部に位置し、知多市との境近く)とも、大浜(愛知県碧南市)とも云うが、これは大浜で間違いない。なぜかと言えば、到着した家康を迎えに行った松平家忠が、自身の日記『家忠日記』に「大浜へ御あかりにて、町迄御迎えに越し候」と記しているからである。

 一方、ウェブサイト「戦国浪漫」では、伊勢から直接大浜へ行ったのではなく、一度常滑で上陸し、知多半島を陸路で横断した後、成岩(ならわ・半田市)から再度船に乗り、幅狭の衣浦湾を渡って大浜に上陸したのではないかと指摘する。詳しくはリンク先をご覧頂きたいが、その理由として、当時の一般的なルートで伊勢~常滑(または大野)という航路が存在したこと、成岩の常楽寺に家康が立ち寄ったとする寺伝があること、そして知多半島を大きく回って大浜に直接行くのは少し無理があるということが挙げられている。

 実際に最も合理的な、最短経路を考えると、上記の常滑~成岩~大浜ルートになる。またこのルートであれば、常滑、大浜の両説とも正しいということになり、諸書の混乱にも説明がつく。成岩について言及する書物は非常に少ないが、『石川正西見聞集』には「しろこ(白子)より御舟にめし、三河の内ならわ(成岩)へ御着船」と、船の到着点として書かれている。以上から、常滑~成岩~大浜ルートは、極めて強力な説だと言えよう。

岡崎
 大浜に上陸した家康は、『家忠日記』の著者・松平家忠らに迎えられ、居城の岡崎城へ戻る。堺を出発して丸々3日あるいは4日目になっていたかもしれない。岡崎に帰還した家康は、明智光秀討伐に向けて準備をするのであった。

 

神君伊賀(甲賀)越え③ 3日目その1(伊賀越えか甲賀越えか)

 家康が信楽の小川城を出発したこと、またその後に柘植の徳永寺で休んだことは、ほとんど異論を挟む余地がない。しかしその間、どのルートを取ったのかは、江戸時代初期より諸説入り乱れ、現在においてもいまだ決着していない。今回は主に知られる①甲賀郡内を通り伊賀を迂回するような「甲賀越え」②信楽から伊賀丸柱へ出て、そのまま東進して柘植に至る最短コース「桜峠越え」③少し前まで通説として知られていた「御斎峠越え」の3つを取り上げる。

続きを読む

神君伊賀(甲賀)越え② 1、2日目(堺~信楽・小川城)

家康、堺を出発

 午前5時頃、家康一行は堺を出発した。京への道中、行き交う人々が騒がしい。聞くと、本能寺で「喧嘩」があったという噂もあり、一同心配していた。「譜牒余録」の永井万之丞の項には、

路次にて京より罷下ル下々、何と哉覧騒敷(さわがしき)体、其上本能寺にて、喧嘩有之(これあり)候なとゝ致風聞候

と書かれる。

 

飯盛山四條畷市)にて本能寺の変を知る

 先を行っていた本多忠勝は、反対から大坂方面へ駆けてくる茶屋四郎次郎と出会う。茶屋は「本能寺の変」の急報を家康に伝えるべく、急ぎ下洛していたところだった。茶屋の報告によって、信長自刃を知った本多は、急ぎ家康本隊へと戻るのである。

続きを読む

神君伊賀(甲賀)越え① 概要

概要

 天正10年6月2日早暁、京都・堀川四条の本能寺に宿泊していた織田信長と、烏丸御池妙覚寺にいた織田信忠は、重臣・明智光秀に攻められ、敢えなく自刃した。世に言う本能寺の変である。この時、大坂・堺にいた徳川家康は、軍勢を引き連れていないことから上洛しての光秀討伐を断念、一路、根拠地・岡崎への帰還を目指す。6月2日から4日に渡る家康の逃避行は、一般に「神君伊賀越え」と呼ばれる。

 経路や日数など、今なお謎多く、諸説入り乱れる「神君伊賀越え」(以後、伊賀越えと表記)について、何回かに分けて、私見をはさみつつ解説していきたい。

 

続きを読む